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今流行りのマインドフルネスに物申す。29年間ネイティブアメリカンと共に生きてきたぼくが伝えたい、本当の「あるがままに生きる」とは?

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今回ご紹介するのは、ネイティブアメリカンと共に暮らし、実践してきた先住民の叡智を元に企業やプロの教育者向けにコミュニケーション、リーダーシップ、イノベーションに関する独自の教育を行うマザーアースエデュケーションの松木正さんです。

昨今ブームになっている「ティール組織」にみるまでもなく、近代以降の社会・人・組織のメタファーであった「機械」パラダイムは終わろうとしており、時代はVUCAワールド(複雑系社会)の限界を突破する新たなメタファーを必要としています。

次の時代に台頭してくるのが「生態系」というメタファーです。ネイティブアメリカンは、まさに自然と共に生きてきた先住民族の一つであり、かつて西洋文明によって壊滅的な打撃を受けてしまいましたが今再び彼らの叡智が注目を浴びており、これからの思想形成において大きな拠り所になるのは間違えないと確信しています。

松木さんは、ネイティブアメリカンのラコタ族と長い年月を過ごし、伝統的な儀式を執り行うことを認められた数少ないシャーマンであるだけでなく、そのシャーマニズムから多大な影響を受けて社会変革方法論にまで発展したプロセス志向心理学*などの科学的知見の両軸を兼ね備えた、教育者として唯一無二の存在です。

展開されるお話の中には、これから人類におこるべくして起こる根本的な意識レベルのパラダイムシフトとそれに伴う全く新しいイノベーション創出方法、コミュニケーション・組織論、リーダーシップ論のヒントがてんこ盛りになっています。

また、禅、密教、ヨーガ、山伏、神道、道教、マインドフルネス、ボディーワーク・・などの古代叡智とそれを元にした手法との数々の共通点を見いだすことでしょう。ネイティブアメリカンの叡智もその他古代叡智も、最新の科学と合理性と共に未来の叡智へ紡がれていく過程にあるのだと思います。

今の社会、今の自分自身のあり方に疑問や限界を感じている全ての人たちにお届けます。

 

プロセス志向心理学*
アメリカのユング派心理学者アーノルド・ミンデルが中心となって創始、発展させてきた、心理療法、自己成長、関係性への取り組み、社会運動等に、統一的に活用できる体系。アーノルドミンデルは、シャーマニズムからの影響を強く受けており、現代のシャーマンである松木さんが最先端の心理学に基づく方法論を使いこなしている所に、大きな意義があると筆者は強く感じている。ちなみに、プロセス思考心理学は、シャーマニズムの他にも、老荘思想の「道」の概念、量子物理学、マハトマ・ガンディーやキング牧師などに多くの影響を受けている。

告知:3月27日(火)19:30 -22:00(開場19:00)@神田Co-loungeにて、同タイトルの講演会を開催します。詳細はFBにて。


 

スウェットロッジ*から出てきたぼくは、草むらの中で起き上がれずにいた。

ラコタ族の精神的なリーダー(メディスンマン)であるロイは、横でパイプ椅子に座ってタバコをふかしながらぼくの様子を見ていた。

「タダシ、ここに来なさい」

よろよろとほふく前進し、ロイの横にひざを抱えて体育座りになった。まるでおじいちゃんと孫が並んでいる図だ。

真正面に広がる平原の星空を見ながら、おじいちゃんはぼくに質問をした。

「この大地に生きるものにとって、一番大事なのは何かわかるか?」突然の投げかけられた壮大なテーマの問いに、ぼくは即座に答えることができなかった。

黙っているとロイが言う。

 

「faith、信頼だよ。信頼のないところには、何も起こらない」

 

「faithは何から始まるかわかるか?」

またもや難しい質問だ。ぼくの返事を待たずにロイは言った。

 

「accept、受け入れることだ」

 

著書『あるがままの自分を生きていく』(松木正著)より抜粋

*スウェットロッジは、ネイティブアメリカン・ラコタ族に伝わる儀式の一つ。マヤ、アステカやエスキモーなどなど世界中の先住民儀式に見られるものでもある。文字通り、「汗の小屋」という意味で、10名から20名程度が入れるムロをつくり、その中に焼けた石を入れた蒸し風呂の中に入る。ラコタ語では「イニーピー」といい「子宮回帰」を意味する。母なる大地の子宮であるロッジは、身体、精神、魂を浄化する聖なる空間として、ラコタ族にとっては季節ごとや毎週ごとなどなど定期的に執り行う日常的なものでなくてはならない儀式の一つである。 

 

 

ー 松木さんは、どのように、ネイティブアメリカンに導かれたのです?

 

生まれは京都の伏見。周りは刺青の入った人たちが多いような街で育ちました。男あるもの、強くあるべし、僕はただただ強い”マッチョな人間”を目指していたんです。

大学2年生19歳の夏でした。実家のある京都から父の故郷である北海道まで無謀なことに走る挑戦をしたのですが、心臓がうまく機能しない状態になり、ドクターストップ。そして、これをきっかけにうつ状態になってしまいました。

両親は同志社大学で心理学を学んでいて、そのつてで当時はまだ走りだった「心療内科」でカンセリングを受けることになりました。初めはカウンセラーの言っている意味もわからなかったのですが、徐々に、自分の妄言を受け入れてもらえることで安心感が湧いて、元気が出てきました。完治するのに1年半かかりましたね。

 

肉体追求から心の追求へ

キャンプ場で、子供達に指導するキャンプカウンセラーという仕事をやっていました。男芸者みたいなもので、キャンプでのアクティビティで人をのせるようなことです。

それからYMCAの職員になりました。YMCAにはアメリカの風がいち早く入ってきます。アメリカでは環境教育というのが流行っているらしと。そして、感覚教育やValue Education(価値の明確化教育)、知識偏重から体験を通じた主体的学習など、アメリカ教育の最先端を見聞きするようになっていました。

そして、そういった最先端の環境教育なるものが、ネイティブアメリカンの叡智をモデルにしていたということもその時知ったのです。YMCAには、もともと全米で唯一のラコタ族とのパイプがあったことをきっかけに、1989年アメリカサウスダコタ州シャイアンリバーインディアン居住区(ラコタ族)に初めてコミュニティーの一員としてそこに住み、インディアンの子供たちの教育に関わる仕事をはじめることになったのです。

 

ー ネイティブアメリカンの儀式の中でも一番メジャーなスウェットロッジがありますが、これはどんな体験なのですか?

 

「受け入れる」力

スウェットロッジというのはコミュニティの皆で簡単にいえば蒸し風呂に入るわけですが、とても神聖で重要な儀式として位置付けられており、季節ごとや毎週行うものです。

ぼくがスウェットロッジを初めてまともに経験することになったのが、冒頭の回想シーンです。もっとも衝撃的だったのは、入り口のちょうど反対側に座っていた二人の男性でした。1メートル90センチはあろうと言う身長、130キロはありそうなごっついおっちゃんだった。大きな身体に赤銅色の肌、鷲鼻でまさに映画に出てくるインディアンの戦士そのものでした。

ところが、驚いたことにこの二人が自分の祈りを捧げる順番になった時、ものすごい勢いで泣くんです。「ウワーン、ウオーン、オウオウオウ」と。ぼくは呆気にとられてしまいました。大の男が泣くなんてとんでもないと、”マッチョ”な生き方にしがみついてきたぼくの前で、この理想的マッチョの超人がわんわんと泣いているのです。

そして、周りの人たちはその様子をものすごく暖かく受け入れているん。

「ホー」

と言う声が、何度もあちらこちらから聞こえてきます。これは「そうなんだね」「わかるよ」と言う共感を表す

インディアン流のシンプルなあいづじです。

スウェットの中ではみんな思い思いの願いを語ります。それは、「祈り」であって別にシェアしているわけではないんです。でも一緒にいるメンバーはその祈りにただただ耳を傾けて「ホウ」と声をかけあうんです。受け入れられているというなんとも言えない安心感、場そのものが安心感に包まれているのです。

 

それでもぼくはマッチョマンでしたから(笑)「俺は強いし、泣かないし」と思っていました。

そして、ついにぼくの番がきた時に、自分の祈りを始めてみると・・・出るは出るは、そこからは正直あまり覚えていないのですが、とにかく一気に泣きじゃくりました。そして、誰からともなく歌い出しました。一緒に泣いている人もいました。ぼくの祈りは日本語だったのでわかるはずもないのに。

「ホー」。安心が高まって行く。

冒頭でアンクル・ロイの「faith」と「accept」の話をあげました。ラコタの人たちにとって、スウェットロッジという儀式は自己肯定感、つまり「私は存在していていいんだという安心感」を育てる場になっているんです。

 

人は、ありのままを認められると、素直な自分や弱い自分を語ることができます。そして、それによって初めて今いるところから未知の領域に一歩踏み出し、冒険して見ようかという気持ちになる。つまり、「受け入れる」ということこそ、真の創造者への入り口なのです。勇ましいネイティブアメリカンたちの力の源は、まさにこのスウェットロッジの儀式というシステムがキーになっているのです。

 

現代社会では、ぼくたちは社会の中でどうあるべきか、どうすれば成功できるかと、社会的に目指す像や他人と比較して、「今の自分に足りないものはないか?」、「ないもの探し」をして生きることを求められて来ました。そして、何かを達成する、認められることによって初めてその差分がなくなり自分を受け入れられるようになるという「条件付きの自己肯定」で満たされて来ました。

しかし、本当の幸せや本来潜在的に持っている創造性発揮において、この思考には大きな限界があるのです。

人は、自分の弱い部分や、影の部分を受け入れることで、本当の意味で強くなれる。自分にないものを埋めるのではなく、自分にあるものを全て受け入れる、ということです。これは、過去の偉大な心理学者や賢人たちが共通して言っていることにも合致します。

 

ーネイティブアメリカンが自然の中で生きる中で培って来た叡智とは何なのか?について詳しく教えてください。

 

現代人の特徴である「思考」の限界

まず、現代人が拠り所にしている「思考」には限界があるというお話です。僕たちは日々思考によって過去を振り返り、将来を予測し、計画をたて、物事を進めるようと考えています。思考が創造の源泉だと”思い込んで”います。これが実はそうではない、という話です。

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私たちは、日々「今までの世界」すなわち「日常の合意された現実」の中で過ごしています。これは、過去の経験によって生まれた思考の産物である自分が信じていることー「ビリーフ」によるものです。人間の脳は、生存のため、常にこの「ビリーフ」に基づき、安全・安心な道を選択するように意識・行動させようとするのです。

実は、これが「広がる世界」すなわち「創造の世界」に入ろうとすることを邪魔している「ビリーフシステム」というものです。このシステムに置いて「不安」や「恐怖」という感情が重要な役割を担っており、これら感情は我々の生存を守るべく、不確実な「広がる世界」ではなく、確実な「今までの世界」に引き戻すように働いてくれます。

 

一方、自分の奥底にある「エッセンス」という存在・・・それは、心理学的には「集合的無意識」などと呼ばれるものであり(わかりやすく言えば「本来の自分」とでもいうべきものですが)、「広がる世界」すなわち「創造の世界」に常に導こうという力を出し続けているのです。

こうして「合意された日常」に引き戻そうとするビリーフの力と、「創造の世界」へ導こうとするエッセンスの力の二つのベクトルがせめぎ合う場「エッジ」が生まれます。

真の創造とは、いかにこの「ビリーフシステム」の罠から抜けだし、「エッセンス」の力を知覚化して「エッジ」を突破するか?にかかっています。

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ぼくたちは、「創造の世界」へ入っていくために、この「エッジ経験」をいかに自覚するかに注力を注ぎます。ぼくがやっている儀式や研修の場というのがまさにこの「エッジ」を体験するためのものなのです。

 

ーでは、この「合意された日常」から「創造の世界」へ行くための限界である「エッジ」を超えるにはどうすればいいのでしょうか?

結論から言えば、この限界を超える突破口が「いまここ」という時空間(新たな次元)なのです。

僕たちは、時間も含めた4次元世界に生きています。そのことを人とコミュニケーションする時には、紙やスライドを使うので通常2次元で表現することが多いので、僕たちはこれを「フラッドランド」と呼びます。僕たちは普段、フラットランドに暮らしています。

 

わかりやすくこの紙を使って2次元で説明しますが、僕たちが、この右側の「広がる世界」に行こうとするときに、このように必ず壁にぶつかります。さて、ここをどうしたら超えられる?

「ジャンプですか?」

そうだね。上にジャンプすれば超えられますよね。つまり、3次元に行くことでようやく壁を超えることができる。真のイノベーションを起こすということは、”次元をあげて”今までの世界を超えることなのです。

 

それで、元の話に戻しますが、「思考」というは実は「過去」と「未来」しか行っていないのです。自分の「ビリーフ」が生まれた地点=つまり過去の情報から判断して、「ああした方がいい」、「ああすべきだ」と、今までと同じ状態である安定や安全を計算して提示してきます。人は「思考」しているとき、過去の事象を探してきて自分のビリーフを見つけ、それを元に未来に飛んで行っているのです。つまり、思考には過去と未来しかなく、「今のリアリティ」を見ていないのです。

 

「いまここ」の本当の意味とは?

では「いまここ」とは何か。それは、誤解されていますが「過去、現在、未来」という線形の次元の中における「現在」とは違う次元のものなのです。

 

スウェットロッジなどの儀式の力というのは、この「いまここ」に繋がる力なのです。自分の内側から溢れ出てくる感情というのはこれは通常の意識状態ではないものー変性意識と呼ばれていますがーに持って行かされます。わかりやすく言えば、左脳的な顕在意識の思考の遮断を余儀なくされ、右脳的な潜在意識が作動し始めます。

自分の内側にある本来の自分=「エッセンス」に繋がる時空間こそ、この「いまここ」であり、エッセンスと繋がれるのはこの一点しかないのです。

ネイティブアメリカンには「ワカン・タンカ(Wakan Tanka)」という言葉があります。創造主、宇宙の真理、大いなる神秘のことをさします。ネイティブの哲学では、この世のことは全てこのワカンタンカが創造したものであり、この世の中心にワカンタンカが存在していると考えます。

ワカンタンカは、この「いまここ」の次元に現れ、「エッセンス」を経験させようとします。ところが、人は再び思考によって、元の時空間の自らのビリーフに戻ろうとします。こうして「エッジ」で新たなせめぎ合いが生まれます。

 

4次元空間に次元を一つ加えることができるのが、唯一「いまここ」なのです。

「今ここ」は、5次元世界への入り口です。最新の物理学、ひも理論によれば宇宙は11次元でできてると言われています。これまでの世界を超えた、「創造の世界」への入り口が「いまここ」なのです。

 

わかりやすく言えば、過去、現在、未来の現在からその「奥」に入り込んで行くイメージです。「いまここ」は、「俺」「松木正」を超えた「それ」と絡み合った状態です。創造の力は今にしかない。「俺」から「それ」へ「大いなるもの」と繋がる、「エネルギーそのものになって行く」、それは、自分半分の状態、「それ」と共にダンスするのです。このあたりはもはや言語化は困難な領域です。

 

鍵を握るのは、「エッジ経験」

僕たちは何かするときに、うじうじしたり、どうしようか飛ぼうか飛ぶまいかと行ったりきたりしたりする感覚があると思います。これが、「今までの世界」と「広がる世界」の「エッジ」にいる状態であり、しっかりと捉えるべき「成長」の機会なのです。

過去のビリーフに満ちた既知の世界は安心ですが、創造の世界は「未知」だから「怖い」「不安」なのが当たり前です。だから、戻ろうとするのです。ということは、「怖い」という感情を自分の内側に見つけた時、それこそが”GO”サインだということです。

僕たちは、ついついいつもと変わらない気の知れた人としか付き合わないですよね。そして、ちょっと嫌だな、萎縮する、苦手、不安だなと思う相手。こういう人とこそ付き合ってみることが大切です。

 

「エッジ」を意識的に感じ取る力、それはすなわち自分の感情や身体感覚に意識を向けることが重要だということです。次にのべる「フラート」は、「合意された日常の世界」から「創造の世界」へと繋がる「いまここ」に入る入り口のことです。

 

エッセンスに繋がるための「フラート」

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一番下の「エッセンス」とは自分の深い奥の奥の方にあって、自分そのものとも違うし、形もないし、実態もありません。

「フラート」とは、「エッセンス」と繋がった時に起こる、”向こうが注意を引いている”感覚のことです。自分から見るのではだめで(それは「合意された現実」からの視点だから)、向こうから見る視点が必要になります。

例えば、森に入った時、なんとなく鳥が自分に訴えかけてきてるな、と感じたらそれがフラートです。普段、暮らしていても、意識的ではないのに何となく向こうから注意を引いてきたサインがあるという経験はみなさん多少なりともありますよね?これは、いわゆる変性意識状態なのです。

それが知覚できたら、大切なことはそのままあるがままに感じることです。すぐに「思考」によって意味付けしてはいけません。例えば、それを声にして表現してみたり、色に例えてみたり、動きとして身体で表現してみたり、映像化してみたりする。そのエネルギーと同一化していくと、エッセンスからの問いかけにふと「気づき」が生まれることがあります。

この「気づき」は人によって様々で、言語化されたものとして突如降ってくることもあれば、言葉にできない体感的な気づきであることもあります。

「フラート」するものこそが真に本来のあるがままの自分の願いなのです。これがとても重要なポイントです。すなわち、「今までの世界」で「思考」したものは、本来のあるがままの自分の願いとは程遠い的外れなものであることが大半なのです。

 

「ドリーム」は、すでにお話した「エッジ」付近にある無意識レベルのことなので、まさに「今までの世界」と「広がる世界」が入り乱れています。みなさんが見る実際の夢というのも、合意された現実の世界と、エッセンスから流れてくる創造の世界が融合したものと考えられています。

このドリームを分析することは、過去の心理学者がやってきたことでした。自分の見た夢を語っていく時に、その場面で「向こうが、注意引いてくるものなにかな?」などと問いかけを行っていくと、フラートの要素が含まれていることに気づくことができます。

 

ーどうすれば「フラート」という感覚になれるのでしょうか?

例えば、目標持たないでウォーキングすることなどは良いプラクティスになります。その中で、例えば風が注意を引いてきたなと思ったら、その吹いてきて風になって見るようにしてみると、何が浮かんでくるか?身体知をとぎすます必要がありますね。

例えば、いつもビルに囲まれた都会でものごとを考えていたらどうなるか?都会はどちらかというと思考の産物であるので、必然的に「考える場」になります。「機械」に囲まれていれば、機械的発想にしかなり得ないのは当然の結果でしょう。より、自然豊かな場所にいれば、それが自然なのですから、創造のプロセスも生命体のような流れになっていきます。

ぼくがやる研修では、森の中で自然になって歩く練習「フォックスウォーク」というのを取り入れたりします。こうすることでフラートが起こりやすくなります。

 

ーあらためて、「あるがまま」であるとはどういうことなのでしょうか?

「あるがまま」と「なんでもあり」の違い

みんな「あるがまま」というと、「なんでもあり」なんだ!と勘違いしてしまうんですよね。

これは全然別ものです。あるがままを取り戻す上で、一番の問題なことはぼくたちは「あるのにないことにしている」ことがとても多いと言うことなのです。

 

実は「あるがまま」であるということは、「合意された日常」のビリーフシステムの中で「周縁化」してしまっている自分の一部を取り戻すという行為なのです。

 

心理学的には影(シャドー)と言ったりしますし、ぼくのワークでは「モンスター」と言ったりします。自分の中で大きくモンスターに化けてしまっている不安、恐怖、怒りなどの感情を抱かせている対象こそ、自分が周縁化してしまってまだ受け入れられていない自分の一部なのです。

 

人生の中に出てくる登場人物は全て、自分の投影です。「悠 一」の舞台にはキャストがたくさんいて、みんながそれぞれ演じていますが、スポットライトは一つしかなく、「悠 一」と周辺にしか当たっていません。

他は影になっていて、つまり「周縁化」しているわけですが、それは普段自分が意識してない自分自身なのです。このたくさんの自分たちを取り戻すことによって、自分は本来のあるがままの自分になっていくのです。

 

「周縁化」しているものに気づくこと

何だかざわざわしている、という感情に自覚的に気づくことがまず大切です。とても微細な、言葉にしえないシグナルが日々たくさん起きています。「いまここ」に起きている感情への自覚こそが真実を見せてくれるのです。

 

ー ネイティブアメリカンのコミュニティーのあり方については、これからの社会に何かヒントになるものがありますか?

 

ティオシパイエ(拡張家族)というコンセプト

ネイティブアメリカンの儀式は、自分自身(エッセンス)と繋がることを通じて、自分のあるがままを表にさらけ出します。ということは深いレベルの自己で繋がっていく訳で、そこに強力な繋がりが生まれます。

これらの儀式は意図的なコミュニティの結束を高めるための装置として機能しているのです。いろいろな状態の人がいて、そのあるがままをお互いに助け合いながら受け入れていく。

そうやって共依存ではなく、相互依存関係を複雑に結んでいくことで、生態系のような強いコミュニティが成り立っていくのです。

その証拠に、アメリカにきた人たちが、ネイティブアメリカンを征服する時に、一番恐れたのは、武器でも戦士でもなくこの「ティオシパイエ」という深いつながりだったのだと言います。

彼らは、シェリー酒とウイスキーを与え、白人の個人主義的アイデンティティーと共に個別化させることで、このティオシパエを破壊することに成功してしまったのですが。

 

ー このような教育をどのような層に届けたいですか?

リーダーシップからエルダーシップへ

子供達やもがいている大人たちはもちろんですが、もっと大人が成熟しないといけないですよね。メタスキルを持った大人ー「慈悲深さ」や「寛大さ」など。自分の成功体験ではなく、心のこと、新しい次元のこと、そして至福のこと。自分はそうなりたいし、これからもいい年寄りをつくって行きたいね。

 

ー 自分が変わることは、社会が変わることと関係ないと思われることはないでしょうか?

 

悠 一も、「今までの世界」と「広がる世界」を行ったりきたりしてるよね。実は、それは局所的ではなく、非局在的に起きていることなんだよ。

自分が変われば世界は変わるとはよく言うけど、世界は悠 一と共に一緒になって行く。・・・そのようになろうとしているんだよね。

 

ー 松木さんのこれからのビジョンはなんですか?

これをああしたい、こうしたいということは特にないです。ただ、ジョセフキャンベルが言う”至福の体験”ーああ、今死んでもいいと思える瞬間ーを味わって生きたいよね。それは、何か達成するということではなく、きっと、日常の中にふっと現れる一瞬なのかもしれないね。

(2018年3月6日  インタビュー / ライティング by 山下悠 一 )

 

松木さん2松木 正(まつきただし)

マザーアース・エデュケーション

大学在学中、キャンプカウンセラーとして小学生・中学生を対象とした教育キャンプに携わる。

また在学中、自身がうつ病を克服していく過程でカウンセラーと出会い、教育の現場にカウンセリングの手法を用いることの可能性を探り始める。 

 卒業後、大阪YMCA六甲研修センターに奉職。「体験学習法」を用いた企業研修や幼稚園児から大学生までを対象にカウンセリングの手法を用いた野外教育(キャンプ)を実践。 アメリカの環境教育に出会い、本物を目指して渡米し、アメリカ先住民の自然観・宇宙観・生き方、またそれらをささえる儀式や神話に強く引かれ、サウスダコタ州シャイアン居留区に移り住みスー・インディアン(ラコタ族)の子どもたちの教育とコミュニティ活動をしながら伝統を学ぶ。 現在、神戸でマザーアース・エデュケーションを主宰し、“自分をとりまく様々な生命(いのち)との関係教育=環境教育”をテーマとし、独自の環境教育プログラムを展開。企業、学校での人間関係トレーニング、また子供の保護者に向けてのワークショップ・子育て講座、アメリカ先住民の知恵を前面に打ち出したキャンプの企画と指導、神話の語り(ストーリーテリング)、個人カウンセリングと独自のワークショップを展開中。企業研修ではPlan,Do,See内の研修を手がけ、個人と企業の成長とイノベーションに大きく貢献した。 

ラコタ族の伝統儀式を執り行うことを許された数少ない日本人の一人。


告知

3月27日(火)19:30 -22:00(開場19:00)@渋谷C-loungeにて、同タイトルの講演会を開催します。

ぜひ、松木さんの生の言葉・体験を味わいにきてください。詳細はFBにて。

 

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社会を耕す人vol1. 「地球を9周巡ったわたしが、ローカルに根ざす理由」ー小野寺愛

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グローバル化によって得られた便利さと引き換えに、環境的、社会的、文化的様々な問題が指摘される昨今において、未来のグローバル社会はどうあるべきか?が問われていると思います。

今回お話を伺った小野寺愛さんは、ピースボートに乗船したきっかけを通じて、その後洋上のモンテッソーリ保育園「ピースボート子どもの家」を立ち上げ話題となりました。海外の留学経験や、大手外資系証券会社に勤めていた経験もあり、グローバルに活躍されてきた愛さん。そんな彼女が今注力している活動は多岐に渡りますが全て”ドローカル”な活動。そこには、一体どんな考えがあるのか?今回は、その真意に迫ってみました。

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ー 愛さんは、10歳、7歳、3歳のお母さんですよね。いつも精力的に活動している印象ですが、今どんなスケジールで日々すごされていますか?

地元逗子の海と山を舞台に子どもたちと本気で遊び、自然や地域のつながりを取り戻そうという活動、「そっか」が週2日、一次産業を応援するため、出荷基準に満たない野菜を買い取って瓶詰めにして販売する「ファームキャニング」が週2日。その他不定期でスローフード日本やエディブル・スクールヤード・ジャパンの活動を行なっています。ドタバタ母ちゃんですね。

 

自然や地域のつながりを取り戻す活動「そっか」

足下(そっか)から始めよう

一般社団法人「そっか」は、神奈川県逗子市の森里川海をフィールドに、「たべる・つくる・あそぶ」を、子どもも大人も本気でやる、「エア町内会」のような活動です。

自然の中でも、改装準備中の「海のじどうかん」でも、何にでも挑戦し、何度でも失敗して大丈夫。子どもはもちろん、大人も、かかわる誰もが主体になって、やりたいことに取り組める場づくりをしています。

足下(そっか)は、足下から「そっか、やっちゃえばいいんだ!」と皆がうごめきだすイメージからつけました。
活動をきっかけに、本当の意味での “地域共同体” を育めたらと思っています。

sokka.life

SOKKA 一般社団法人「そっか」

ー なぜ、ローカルに根ざした活動をするようになったのですか?

ピースボートという非日常体験

ローカルに根ざす前は、ひたすら世界を旅していました。国際NGOピースボートで働いた16年間が、今の自分を作った原体験です。

毎回800人以上の参加者と共に船で地球を一周しながら、世界中で人の暮らしに出会い、豊かな自然に触れます。「世界」という圧倒的な非日常を舞台に、平和教育・環境教育の洋上企画を作るのが私の仕事でした。旅は出会いと刺激に満ちています。帰ってきたら世界の平和のために生きよう、地球環境のために働こうと感じる参加者も多く、やりがいがありました。

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o092613101350959339898でも、繰り返していくうちに「非日常体験」には限界があることが浮き彫りになってきました。皆がやる気に満ち、興奮状態で3ヶ月の旅から帰国する。でも戻っていく日常にいる家族や仲間、同僚に、自分と同じ体験をした人はいません。前と変わらない日常を過ごしていくうちに、思いはいつの間にか薄れてしまう。

 

戻った場所に、思いを共有できる仲間を作るのは、簡単なことではありません。それで、同じ船に乗った仲間と定期的にオフ会をやって語り合う。それはそれでいいけれど、日常の「徒歩圏内」にどれだけ仲間がいるかが大切なんじゃないかと感じるようになりました。

 

言い換えると、「自分と同質の、居心地がいい人といるだけでは世界は変わらない」ということでしょうか。インターネットやSNSが広まって、いつでも好きな人たちと繋がり、会えるようになったのは便利です。でも、たとえば震災があったらどうするか。ご近所さんと協力しあうでしょう?少しくらい意見が違っても、最初は苦手と感じる相手でも、「まあ、近くにいるんだから一緒にやりますか」と動く力が、現代社会で減っている気がして。もちろん、自戒も込めて。

 

キャンプって、わざわざ不便な状況に出かけて行き、その中で工夫することの中に喜びがあったりしますよね。それと似ている気がする。日常環境の中でも、「不便さもひっくるめて共に生きること」には、想像を超える喜びがあるなと感じています。

 

また、ピースボートで私が見てきたグローバルの最先端は、実はみんな超ローカルでした。代替エネルギー先進国のデンマークは、国際的に注目されています。でも、現場を訪れてみれば、コペンハーゲン市内の風力発電機は8割以上が「個人所有」なんですよ。広めたのは、市内に暮らす普通の人たち。地域住民が、どうやって市民風車を広めるかということを話し合い、ローカル冊子を作ったり、新聞に広告を乗せてみたり、仲間内から政治家を輩出したり…。地道な活動の結果が、環境先進都市を生んでいた。

 

イタリアのスローフードや、カリフォルニアの学校菜園オーストラリアのパーマカルチャーなど、現場を訪れて腑に落ちたものがありました。グローバル課題の解決策として注目されているこうした動き。支えているのはどれも、地に足ついて日常を生きる、どローカルな普通の人たちだったんです。

 

ー 外資系証券会社に勤めていたと伺いましたが、その経験はどのように捉えていますか?

証券会社に勤めようと思ったのも、ピースボートに乗って貧困や戦争の現場を身近に感じたことがきっかけでした。「世界は、お金の流れを大きく動かさないと変わらない」そんな若くて青い気持ちで就職したんです。就職試験では、当時まだ新しかった社会的責任投資への思いを熱く語りました。が、配属先はヘッジファンドの売り買いを支える部署。(笑)

 

入社直前に貝殻を通貨として使うパプアニューギニアにいた

入社の1日前、3月31日までピースボートに乗船していました。南周りで地球を一周した最後の寄港地は、パプアニューギニア。ラバウル近郊の村では、皆が貝殻のネックレスをしていて、首から貝を外しながらお金として使っていました人もとても温かくて。

 

正直、入社初日から違和感の連続でした。首に社員証をさげている人に、元気よく笑顔で「おはようございます!」と声をかけてみるわけですが・・・皆、なんだか冷たい。忙しそう。(笑)

 

紙を節約するために裏紙を使って作業していたら、怪訝な顔をされ「アスクルで好きなの買ってね」と言われる。社内で無料で飲めるドリンクは、一口飲んで捨てる人も・・・何でも無駄なく使い、貝殻の通貨でつながりあっているラバウルとのギャップは、ものすごかった。

 

昼休みは、反戦デモへ、帰ってきたら・・・

イラクへの空爆直前、ピースボートの仲間が「イラクを爆撃しないで」と米国大使館前でデモをやっていたとき、昼休みは毎日応援に行きました。

 

1時間だけ参加するデモから会社に帰ってくると、戦争がはじまることで価格が変わる石油会社の株や債権の話がテーマでした。これは辛かった。爆撃の下には、普通の人の暮らしが広がっている。それを完全に無視したマクロの話・お金の話は、自分には全然入ってこなかったんです。

 

でもみんないい人だった

会社にいた人たちは、みんな超優秀な、いい人たちでした。必要とされる場所に多額の寄付をしたり、週末ボランティアで炊き出しをやっている人も、たくさんいました。

 

ただ、投資経済が世界に与える影響については考えたことがないのか、割り切っていたのか。私は、若くてロマンチストで、割り切れるほど大人ではありませんでした。出社するときに吐きそうになっては電話して「今日行けません」と休む日も。そんな日々が続き、2年持たずに辞めて、ピースボートスタッフになったのでした。

 

ー 今、逗子で行なっているのは、新しい教育のあり方の提案と言えると思いますが、どんな思いを持ってやられているのですか?

 

学びは日常の中にある。

そっかの活動は、「たべる、つくる、あそぶ」です。活動の一つ、放課後の自然学校「黒門とびうおクラブ」では、波があればサーフィン、コンディションがよければカヌー、寒い時期にはトレイルランニングなどしています。

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この町の海や森で身体を動かすことが真ん中にありますが、スポーツでの達成感も、その途中で見つけた野草が美味しかった感動も、子どもにとってみればどちらもごく普通の、日常的なこと。特別なスキルを教える「習いごと」というより、「地域活動」なんです。

 

海や森で身体を動かすうちに、野草やワカメなど季節の恵みがわかるようになります。いつも遊んでいる田越川では、水源探しの探検もはじまりました。とびうおクラブの子どもたちは、じゃぶじゃぶと川に入り、遡って歩けば、必ずどこかで水源につくことを知っている。災害で水道が止まっても、彼らは困りませんね(笑)。

 

潮が引いたときに磯遊びできる浪子不動から、海沿いを走る134号線を見上げたこと、ありますか?車道の下の壁から、土管が海に突き出しているんです。「この土管は、披露山の湧き水が海へと注ぐ口に違いない」と、皆で土管に入り込むところからの水源探しをしたときも、最高でした。「本当に出れるのか?!」とドキドキの大冒険(笑)。IMG_4737

食べもの調達能力もすごいです。散歩や里山ビンゴをしながら、その辺にある野草を「これ食べられるんだよ」「あれも天ぷらで美味しいよ」とコーチがいうものだから、皆、喜んでお土産を持ち帰ります。

 

小坪の漁師さんが「タコを取るから見にくる?」といえば、朝5時に集合してカヌーやSUPで乗り付ける。ウニをとる場所もよく知っている。普段の遊びの中で魚を捕まえたり、畑を耕したりしているから、上級生になる頃にはどの時期にはどんな食べ物がどこで取れるのかが、わかっている。

水はどこからくるのか。森への入り口はどこにあるのか。災害が起きたらどっちに逃げればいいのか。そんな「命の地図」を体感的にわかっていて、その気になれば、魚も野菜も自分たちでとってこれる子どもたち。自然の中で本気で遊び、自然に”サバイバル”能力を身につけていく様子は、逞しいなあと思います。

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学びとは「つむがれるもの」

自由に野山で遊んだ長女が幼稚園を卒園するとき、このまま小学校に入って大丈夫だろうか。彼女の生きる力は削がれないだろうかと思っていました。でも、今はそう違う考えを持っています。

そもそも、学校にすべてを丸投げして、子どもが育つわけがありません。学校ではきっちりと「読み書き算数」を教えてもらえれば、それで大感謝です。あとは、地域や家庭でやればいいんだと思っています。

自分だけ、家庭だけではできないことを、地域でやりたい。であれば、発想も「私の子ども」から「私たちの子どもたち」に切り替えちゃおう。皆で育ち合う地域の一部に、自分もなれたら・・・そんな思いの中で「そっか」の活動がはじまりました。

いつのまにか「そっか」は、子ども130人の大所帯。親やその友達も含めて400人くらいのコミュニティーになっていた。大きくなったクラブをみて、思ったんです。

 

学びとは「つむがれるもの」。何かを教わることだけが「学校」じゃないですよね。たべる、つくる、あそぶという、生きることの根幹にあるものをコミュニティーの皆で本気でやっていたら、ある意味でそれはもう、「生きた学校」なんですね。

 

「この町はおいしい」ーわたしたちの体は逗子でできている

「この町で取れた食材だけでバーベキュー、できるかな?」と、季節ごとに地元でとれた野菜や魚を食べる収穫祭をやっています。なぜそんな面倒なことするかって?もちろん楽しいからです。

収穫祭イメージ

皆で食料調達して「美味しい」を共有する体験から、自分たちがこの土地に生かされているという実感を得ることができるかなとも思います。それは西洋風に言えば「エディブル教育」。私たちはそれを「この町はおいしい」という合言葉でやっています。

 

アリス・ウォータース(世界にスローフードを普及させ、アメリカで最も予約が取れないと言われるレストラン「 シェ・パニース」のオーナー)が、地元で取れたオーガニック野菜を学校給食で提供しようという運動をしています。

 

合言葉は、「学校給食を、学校教科に」、そして「学校給食を通した地域創生」。地元のオーガニック野菜を学校で食べることを一つの「教科」にすることで、子どもたちには健康と五感を通した学びの体験を、そして野菜を提供する農家さんには安定した収入源を確保しようとしています。

 

現代社会には、「皆で作って皆で食べる」という、幸せな食卓を囲む体験がない子どももいます。コンビニ弁当や冷凍食品ばかりで、野菜中心のシンプルな食事をとったことがない子どももいます。学校で「食べる」という体験自体が大きな「学び」になる。地元のものを食べましょう、有機野菜を買いましょう、環境を守りましょう、という教育や運動にある限界を、少しでも超えられればと思っています。

 

昔は、体育って教科はなかったと聞いたことがあります。子ども達はほうっておいても外で遊んでいたからです。ケネディ大統領時代の米国で、ベトナム戦争が始まり、体力をもっと強化しなければいけないという国策のために体育という教科が生まれたと。であるならば、今、学校給食を「食育」の大事な時間と位置づけて、学校教科にしてもいいのではと思います。

 

ほうっておいても家族皆で食卓を囲み、地域の有機野菜を中心に食事をしていた昔には、その必要がなかったかもしれない。でも、孤食やレトルト食が当たり前の子どもが増える中、手作りの食事で、皆で一緒に、旬の野菜や季節ごとの文化を味わうことほどパワフルな学びはないかもしれないから。そんなことを考えながら、今、スローフードの仲間たちと一緒に、公立校へのオーガニック給食と、提案できる授業を開発中です。

 

「習いごと」は、3つの間(時間、空間、仲間)をなくしてきたのかもしれない

本当の学びって、何でしょうか。偉い先生が、すごいことを「教える」時間も、学びかもしれない。でも、旬の食事を皆でいただいたり、働く大人の背中を身近で見たり、当たり前の日常にある人の営みを「感じる」時間も、等しく大事な学びであるはず。

 

今の子どもたちは、あまりに多くの時間を「習いごと」に費やしている。学校でも先生に「教わり」、習いごとでも大人から「教わり」… いつ、「次は何しようかな」と自由な思索をしているんでしょう。お友達も習いごとで忙しいから「今日はだれと遊ぼうかな」というやりとりもなくなる。

 

大人たちが子どもたちを愛し、与えすぎるばかりに、時間、空間、仲間という、子どもの育ちに何より大切なものを奪ってきたかもしれない。そんな中、「そっか」を共に始めた永井巧さんの言葉にハッとしたことがあります。彼は言ったんです。「海には全部あるよ、その3つの間」。

 

ー とはいえ、習い事やお受験という価値観でずっときている親御さんたちからは、海や山でただ遊んでいるだけで、実社会の実践として将来に役に立つのか?なんてことを言われたりしませんか?

 

「本当の心地よさを知っている」ということの大いなる意味

今の子達は「意味があること」漬けにされている。あれをしなければいけない、これをしなければいけない・・・そうやって意味のあることばかりに日々囲まれていたら、本当に自分が求めていることがわからなくなってしまう。それどころか「居心地の悪さ」にさえも慣れてしまうという怖さもあります。

19959139_10158986556430287_2872756501207992040_n(目の前にある海の向こう側をさしながら)この海の夕暮れ時って本当に綺麗なんですよ。太陽の光が水面に写ってキラキラ黄金に輝いていて。子ども達が日々、そんな光景の中で自由に遊んでいる姿を見ていて思うんです。

 

この子たちは中学校に入っても、いずれどこか違う街に行っても、世界中のどこへ行ったとしても、「本当の心地よさ」を身体で覚えている。だったら、どこへ行っても、どんな時でも、自ら本当の心地よさや楽しさを切り開いて行ける人になるだろうと確信しているんです。

 

ー 愛さんにとって、見たい未来はどんな未来ですか?

「明日もきっといい日だな」と誰もが安心して眠りにつける社会

学生時代にピースボートに乗った時のことです。21歳のイスラエルの女の子、パレスチナの男の子と仲良くなって一緒に地球一周しました。パレスチナの子はイスラエルの子と仲良くなってしまったことを、初めはとても後悔していました。

 

実際に、彼のおじさんはイスラエルの軍隊に殺されている。自分自身も、投獄され、小さなロッカーに押し込められて、その隙間から管を通して流れてくる流動食を食べて過ごした経験もありました。

旅の間中、二人で歴史を語りあっては喧嘩をしていました。歴史観があまりに違ったから。でも、1ヶ月間を国境のない船の上で過ごすうちに、二人は仲良しになっていった。ある時、パレスチナの彼が言ったんです。「戦争していたのは、人と人ではなかった。政府と政府がつくり出したものにすぎなかった」と。

この旅の後に、二人は、vacation from warという平和活動をはじめました。
そんな彼が、ピースボートで旅している時に、「これが平和なんだと、体でわかった」と言っていました。

 

洋上運動会や誕生日、お笑いコンテストがあり・・・大の大人が、楽しむために日々努力をする様子、彼はそれまでにあまり見たことがなかったそうです。

世界中どこに住んでいても、明日もきっといい一日だと安心して眠りにつける社会が平和なんだと思います。たとえ、日本にいても、そう思えないこともあるだろうし、逆に、戦争の中でもそう思える家族もいると思います。

 

ー 最後に、愛さんの肩書きって何って書けばいいですか?活動家ですか?

肩書きは「お母さん」(笑)

なんでこんな活動をあれこれやっているかって、それは、私がお母さんだからでしかないんですよ。「自分の子どもだけにはいい教育を」っていうのはもう、巡り巡って自分の子どものためにならない。IMG_6187それなら、自分の子と一緒にしたいことを、近所の子たち10人集めてやっちゃおう。そういうことでしかないんです。子どもは、大人の背中をみて育っている。だったらまずは自分が思い切り楽しんで、地域の中に圧倒的な幸せの連鎖を育んでいけたらなと思っています。

 

 

写真

小野寺愛(おのでら・あい)

お母さん

地球9周した船乗り、波乗り、3児の母。国際交流NGO「ピースボート」にて洋上のモンテッソーリ保育園「ピースボート子どもの家」創設・運営後、現在は一般社団法人「そっか」共同代表。神奈川県逗子市の自然をフィールドに子どもも大人も本気で遊んでいる。このほか、日本スローフード協会理事、エディブル・スクールヤードジャパンや、FARM CANNINGでも企画・広報を中心に活動中。共著に「紛争、貧困、環境破壊をなくすために世界の子どもたちが語った20のヒント」(合同出版)など。

(2017年8月14日  インタビュー by 山下悠 一


告知

そんな小野寺愛さんと逗子の仲間たちで行なっている「そっか」が、「海のようちえん2018」を開催します。

(以下、HPより)
2017年度の1年間、神奈川県逗子市の海や森を舞台に、週に一度の自主保育として活動して来た「海のようちえん」。雨の日も風の日もみんなで集まって活動して1年間。はじめまして、で出会った15組の親子が、いつのまにか大家族になりました。2018年は専任の保育者を迎えて、活動を続けます。

2018年は月曜日の「週1クラス」と、水・金曜日の「週2クラス」の2クラス、それぞれ20組の親子を募集します。

4月時点で2歳〜5歳のお子さんがいて、1年間を自然の中で共に過ごすことに関心のある方、ぜひお問い合わせください。

詳細、お問い合わせはそっかHPをご参照ください。

 

 

PeteLinforth / Pixabay

シンギュラリティーは起こらない。今回のテクノロジーが人類を救う7つの理由ー『<インターネット>の次に来るもの』へのオマージュとして(後編)

Posted on Posted in P11. かくめい, S.4 共生プラットフォーム, S1. ワークライフ進化論, S2. スモールビューティフルシングス, S3. 大きなものの分解と再生

—目次—

<前編>

1. テクノロジーは結局のところ人類の「敵」か「味方」か。2つ目のシナリオ

2. 人類は「テクノロジー」への態度を決めなけばならないときが来た

3. 「テクノロジー自然生態説」とは??

4. テクノロジーが人類を救う7つの理由

<後編>

5. 本質を見極めるための3つのガイドライン

6. テクノロジーとスピリチュアリティーの統合

7. テクノロジーは人類を「最適化」する

8. (結論)テクノロジーの真の目的とは?

9. おわりに

 

前回までの<前編>はこちら


<後編>

5. 本質を見極めるための3つのガイドライン

一. 個別事象と「大きな流れ」を見極める

前編冒頭の繰り返しになるが、イノベーションにはそもそも痛みや破壊を伴うものだ。人工知能(AI)によって、これまでの仕事の半分がなくなるという話がある。自分や家族が出版業界や音楽業界にいたら、AppleやAmazonが最高にムカつくと思う。でもテクノロジーの流れは良いも悪いも引っくるめて必ずそうなる不可避なできごとだ。Appleのスティーブ・ジョブズもAmazonのジェフ・ベソスも大きな時の流れのなかで生まれるべくして生まれたのであって、彼らがいなくても必ず他の誰かがやっていたのだ。

200年前のアメリカ人の70%は農場で働いていたが、産業革命の結果、今では1%となりほとんどが機械に置き換わったという。しかしもちろん69%の人たちが失業したわけではなく、その当時考えてもみなかった新たな仕事が生まれていった。これからもそうなっていくだろう。いや、そうでもないかもしれない。乱暴に言ってしまうなら、金融資本主義による肥大化・虚構化した現在の経済を成立させている職業の多くが消滅するということこそが21世紀の人類にとって、あるべき宿命なのかもしれない。生き方・働き方の個別化、分散化によって、”小さな職業”の種類はむしろ増大するトレンドになっていくはずだ。更には人工知能がほとんどの仕事をやってくれる社会において仕事の全体量は減り、「働く」という概念も変化し、それに伴って「生きる」という概念も変化するだろう。著者は高度に進化した先進社会では、仕事というものがなくなるということではないだろうか?”と言う。まさにそうなりつつあるのだ。

大事なことは大きな流れが「不可避」であることだ。前述した通り、波に飲み込まれるまえに、大きな流れをうまく読んで波乗りしていくことが大切になる。

 

二. まずは流れに「乗ってみる」

流れる方向を正しく知っていれば、過渡期における不具合にとらわれて嘆くことも少なくなる。例えば、インターネットに溢れる情報は真偽が不確かで、書き込みは誹謗中傷にあふれ、インターネットは真実を見えなくする悪であり失敗だったと判断を下すのは時期尚早である。生き残ってきたSNS、WEBサービスやプラットフォームの多くは、匿名性を排除し、実名性を採用している。またユーザー同士の評価を可視化するなどして、分散化した「共監視」の仕掛けを保持している。一部ではオンラインサロンのように会員制をとることで信頼性を担保するという進化を見せている。インターネットの本質は、流動化、分散化、個別化、共有化、集合化、無料化、唯識化にあり、必ず”あるべき方向”に収斂していくはずである。であるならば、流れに任せて分散化、個別化、共有化など自らがその流れに積極的に参加していくほうがスマートだ。今回のかくめいのすごいところは、誰もが自ら行動できるし、参加できる流れなのだ。(ちなみに、機械音痴の人も大丈夫。これからのテクノロジーに説明書はなくなるどころか見えないエネルギーのごとく、空気のような存在になっていくのだから。)

すなわち、「誰もが自らみたい未来をたぐり寄せることができる」のである。

 

三. 「ポジティブ」に禅問答を繰り返す

どんな局面においても善と悪は共存する。あえて触れてこなかったが、いつの時点でもテクノロジーは間違えなく人類の脅威になり得る。善も悪も同じように7つの流れに沿って進化し、”新しい善が新しい悪を呼び覚まし、それがまた新しい善をもたらすという円環を繰り返していく”のだ。大切なことは善悪の判断を下すことで思考を停止してそこで自己満足してしまわないことだ。次から次へと起こる変化は不可避であり、絶え間なく流ていくのである。そのなかで、我々自身が真実は何か?禅問答を続けることだと思う。問いかけがあり新しい答えが出てくる、そしてまた新たな課題に対して問いかけ、答えを出していく。その根底では明るい未来へみなで向かっているんだという穏やかな信仰を抱くことが、テクノロジーと共に幸せに生きる秘訣なのではないだろうか。

筆者の言葉を借りるなら”ユートピアでもなく、ディストピアでもなく、プロトピア”である。プロトピアとは、プロセス=今そのものを理想とする考え方だ。ディストピアに嘆きながら今を過ごすでもなく、全てを解決するユートピアを待つのでもなく、問題を次々と解決していく「今」あるプロトピアをポジティブに楽しもうではないか。

 

6. テクノロジーとスピリチュアリティーの統合

ここからは完全な持論だが、21Cに確実に起こると思えることは、これまで分断してきた「テクノロジー」と「スピリチュアリティー」が統合されていくということだ。これは、17Cにデカルトの「物神二元論」によって科学と宗教を分離してきて以来の大革命が起きるということを意味している。

前述の7つのフレームワーク(1流動化、2分散化、3個別化、4共有化、5集合化、6無料化、7唯識化)は、この大きな流れを意識したものだ。

物質中心の世界から非物質の世界へと移行し、すべてが流動化する社会において「諸行無常」であることに人々は気付き始めるだろう。個別化と集合化は個別意識と全体意識を実感させ、わたしはわたしたち以上の存在であることに気付き、”Oneness”を実感するようになる。そして、集合化した全知の中、唯識化=「今ここに、唯(た)だ生きる」ようになるだろう。目の前を移ろいゆく幾多の情報と幻に囲まれながら、常に自分が何者か?を問いただす日々は、「瞑想的日常」と言えるだろう

科学にも宗教にも疎い僕のような人間がこれ以上深く言及することは控えておきたいが、比較的新しい物理学の分野のひとつである量子力学と仏教、禅が同じような世界を見ているということは有識者たちの見解になりつつあるようだ。21C、いよいよ分断していたテクノロジーとスピリチュアリティーは二重螺旋を描きながらお互いがお互いを高め合うように統合していくのだ。

 

1960年代以降、ヒッピーたちは、反戦、公民権運動などの背景を通じて資本主義社会を否定し、カウンターカルチャーのムーブメントをつくっていった。彼らは物質に支配された現代を憂い、人間の意識改革を通じてもっと高次元の精神的存在になるべきだという思いから仏教、ヨガ、禅を学だ。そういった流れの一方で新しいテクノロジーを積極的に取り入れようと貪るように読んでいたのが「ホールアースカタログ」だった。ヒッピーたちもテクノロジーとスピリテュアリティーの融合を夢見ていたのだ。シリコンバレーはそういったカウンターカルチャーの土壌から生まれた。

ご存じのとおり、禅を愛し、ホールアースカタログを愛読していたスティーブ・ジョブズがパーソナルコンピューティング、インターネットで現代のかくめいの礎をつくったというのは偶然ではなく大きな流れの中に起きた不可避な出来事だったのだ。

そして、著者のケヴィン・ケリーこそが、まさにこのホールアースカタログをつくった張本人である。

さらに、同書の編集者であり、友人でもあるNHK出版の松島倫明さんのことを紹介しないわけにはいかない。松島さんが編集された本は、クリス・アンダーソンの『フリー ―<無料>からお金を生みだす新戦略』、『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』、またレイ・カーツワイルの『シンギュラリティは近い [エッセンス版] 人類が生命を超越するとき』、そして本書、といずれもテクノロジー&ビジネス分野で時代を占う最先端でありベストセラーの出版・編集に携わっている。それだけではない、まるで真逆のような『BORN TO RUN 走るために生まれた』、『GO WILD 野生の体を取り戻せ! 』という非テクノロジー化を促すような大変興味深いベストセラー本の数々に対して両軸をいったりきたりしながら編集されてきた、とんでもなく興味深い人である。(ちなみに、ブロガーイケダハヤト氏も注目中である。「「編集者」で本を選ぶということ:NHK出版の松島倫明さんの作品がツボすぎる」

そんな松島さんの大学の卒論タイトルがなんとも秀逸で「Digital Love & Peace」だったそうだ。彼はまさにずっとこのテーマを追い続けているのだ。テクノロジーとも共生する平和社会を夢見る仲間の一人であり、また出版だけに終わらず実生活においてもテクノロジーを活用しつつ自然を愛するライフスタイルを実践されている。その驚くべき先見性と一貫性には脱帽である。

 

テクノロジーは、かくめいの道具箱だ。人類が愚行を繰り返し、危機に瀕した際にそれを助けるべく生まれるものもまたテクノロジーであると信じたい。

ヒッピームーブメントのカウンターカルチャーが途絶えてしまったのではない。むしろ巨視的な視点で見れば、その流れは脈々と現在まで引き継がれ、現代のテクノロジーによってその大きな流れは加速している。今世紀のかくめいは確実に速やかに進むはずである。

自然と平和を愛する人たちにはもはや定着化しつつある「パーマカルチャー」は、持続可能な社会を構築するためのデザイン思想と手法であり「人が手をかけることによって森をもっと豊かにすることができる」という思想背景がある。これは、本来的にはテクノロジーに対して否定しない思想だ。にもかかわらず、パーマカルチャリストの中で21Cの新しいテクノロジーの本質を理解し、積極的に受け入れ、持続可能な社会システムのデザインにとこもうとしている人の数はまだまだ少ないのではないだろうか。

また、政治的に「リベラル」と言われる勢力にとって、新しいテクノロジーは自分たちの史上最強の味方であるにもかかわらず、こと日本においては保守(権力・既得権益)側と混同してしまっている部分もあるせいか、まだまだ十分融合できていない状況が歯がゆいところである。

しかし、いずれも不可避な流れの中で必然的な融合は徐々に起こっていくだろう。

スタートアップセクター(テクノロジードリブン)、ソーシャルセクター(NPO/NGO、市民運動)、ビジネスセクター(大企業)、クリエイティブセクター(アーティスト、ヒッピー、宗教家)この4つのセクターの分断が、まさにテクノロジーの「不可避」な流れの中で、必然的に融合していく日は近いと確信している。

 

. テクノロジーは人類を「最適化」する

人類の人口推移を描くロジスティックカーブは、20Cは爆発的な増加、21Cには変曲点を迎え、定常化に向けた漸近線を描く。一言でいうならば「欲望の20C」、「共生の21C」と言えるだろう。

『テクノロジーは人類を「最適化」する』の意図は、20Cのテクノロジーは、人類の欲望を満たすために開発されたのと同じように、21Cのテクノロジーは、共生のために開発されるのが「不可避」な流れだという考え方である。

つまり、僕たちが「テクノロジー」の是非について議論する場合、誤解を招いている諸悪の根元は、区別すべき20Cのテクノロジーと21Cのテクノロジーを区別せずに議論してしまうことにあるのだと思う。20Cの遺産としてのテクノロジーー化石燃料を活用した技術や原子力発電などーはもちろん、21Cには無駄で不要な存在になるものだ。21Cでは「人工」対「自然」というパラダイム自体が過去のものとなっていく。

分散化し、個別化し、共有化され、集合化し、人と人とがつながることで一番インパクトを与えるのは「戦争」だろう。著者はいう。

人間が戦争好きなのは「誰もが知っている」ことだが、思うに社会的な軋轢を解決していくための方法が地球規模で時間をかけて生まれるに連れ、組織化された戦争は魅力を失い、役に立たないものになるだろう。

7つの流れのなかで開発されていく21Cのテクノロジーは、21Cの人類を最適化していくもの、 すなわち、自然とテクノロジーが共生していくものである。20Cと21C両者の「テクノロジー」はまったく別の目的を持った別ものである。

また、別の言い方をすれば、欲望の20Cにおけるテクノロジーの目的は「有用性」であった。人間にとって最高の価値は有用性ではない、というのが21Cにおける視座である。共生の21Cにおけるテクノロジーの目的は必然的に「至高性」に向かうのだ。

 

8. (結論)テクノロジーの真の目的とは?

テクノロジーは、結局なんのために生み出され続けるのか?

それは極論、”人間を人間たらしめる存在であることに気づかさせるということ”のために人類は自ら生み出しているのだろうという著者の主張には100%同意する。

テクノロジーが人間性を獲得して代替しようとすればするほど、新たな人間性というものが再発見されていく。結局、自分たちが何者であるかを知るためにテクノロジーを必要としているのだ。

そしてより深く、より広く、自分たちが何者かを「知る」ことによって、ますます人類は拡張していく。僕たち人類には、”宇宙の物質やエネルギーの96%は未だ見えていない”という。それ以外のわからない領域をスピリチュアルや宇宙人などまがい物とレッテルを貼っていたものは、21Cのテクノロジーによって知覚可能になり、自覚することで本来の能力を発揮できるようになっていくのではないだろうか。

そうすると、人口知能(AI)が人間を超えるか?という問いの設定自体が浅はかに思えてくる。人間はきっと今理解できているよりはるかに深く、はるかに多様であり、テクノロジーはそのことを知るための手助けをしてくれるパートナーなのである。

 

9. おわりに

冒頭に、未来の予測について信用できるのは「ヒッピーあがりの起業家」だけだと申し上げた。

それは、なぜかといえば結論で述べたように、テクノロジーは本質的には人間を人間たらしめるための道具であって、お金儲けの道具ではないからだ。もちろん、人間の本質的なニーズを満たすからこそビジネスとして成立するので、その意味において両方の目的が一致するポイントがある。そのピンポイントの的を捉えられるのが、生きる本質とビジネスの本質を両方理解しているヒッピーあがりの起業家なのだ。僕は、そういった意味において著者であるケヴィン・ケリーという人間を信頼している。

お金儲けだけならまだいいが、人間のダークサイドの欲望を満たすためにテクノロジーを利用する人たちが一定量を超えるとすると、人類は地球という大きな共生システムの中で不要とみなされ消滅してしまう種になりさがるのだろう。それを回避しなければいけないし、できることだ。

全てのものごとには陰陽があり、テクノロジーとて例外ではない。

結局テクノロジーそのものに善悪はなく、避けられない生態的な変化に沿って進化していくだけだ。大切なのはそれを扱う自分たちの意識だ。正しくテクノロジーを生み出し、正しく使っていけばいいのであって、自己否定や悲観にまみれて未来を憂いつつそれらに接することは、むしろ人類をダークサイドに導いていくことにつながっていくのかもしれない。

未来を予測することは不可能だ。しかし、同書の価値は、未来を進んで受け入れ「未来を信じる力」を僕たちに与えてくれたことだと思う。

「不可避なもの」=「自然の摂理や人間の”本質”」を正しく理解していれば、

どうせそうなる明るい未来に向けて、今を楽しむだけで良いのではないかと思わせてくれるのである。

 

written by  山下 悠 一 

「生きる本質」をデザイン・実践するREVorgの活動にもご注目ください。

 

 

geralt / Pixabay

シンギュラリティーは起こらない。今回のテクノロジーが人類を救う7つの理由ー『<インターネット>の次に来るもの』へのオマージュとして(前編)

Posted on Posted in P11. かくめい, S.4 共生プラットフォーム, S1. ワークライフ進化論, S2. スモールビューティフルシングス

—目次—

<前編>

1. テクノロジーは結局のところ人類の「敵」か「味方」か。2つ目のシナリオ

2. 人類は「テクノロジー」への態度を決めなけばならないときが来た

3. 「テクノロジー自然生態説」とは??

4. テクノロジーが人類を救う7つの理由

<後編>

5. 本質を見極めるための3つのガイドライン

6. テクノロジーとスピリチュアリティーの統合

7. テクノロジーは人類を「最適化」する

8. (結論)テクノロジーの真の目的とは?

9. おわりに

 


<前編>

1. テクノロジーは結局のところ人類の「敵」か「味方」か。2つ目のシナリオ

イノベーションにはそもそも痛みや破壊を伴うものだ。「新しいもの」が破壊をもたらす「敵」なのか、はたまた人類を進化させる「味方」なのかをその時点で判断することはとても難しい。21世紀になり、20世紀までのテクノロジーは人類にとって地球にとって良い存在だったようには思えないところもある。では果たしてテクノロジーは敵と断定すべきなのだろうか?21世紀のテクノロジーの進化の加速度が増していくなかで、その問いに答えることはますます難しくなっていきそうだ。

テクノロジーが行き着く先に関するもっとも有名な説は、人口知能(AI)分野の研究で世界的な権威といわれているレイ・カーツワイルが唱える2045年には「コンピューターが人類の知性を超えシンギュラリティ(技術的特異点)を超えることで人間と機械は融合し、不老不死となり”ポストヒューマン”が誕生する」というものだ。まさに映画マトリックスのようなSF世界が現実になるというわけだ。

こういった人工知能(AI)の出現に懸念を表明する見識者の中には、世界トップクラスの科学者や経営者もいる。イギリスの物理学者、スティーブン・ホーキング博士はその一人である。「人工知能は病気や戦争、貧困の根絶に貢献する可能性がありながらも、人類史上最悪の脅威になりえる」と語っている。また、今世紀最高の経営者とも言われるテスラモーターズやSpaceXの創業者であるイーロン・マスク氏は「人工知能は悪魔を呼び出すようなもの」として、慎重な議論や姿勢を呼びかけている。

このように人工知能が人類を超えるか超えないかというような論点とはまったく異なる斬新な説として、ケヴィン・ケリーの「テクノロジー自然生態説」とでもいうべきものにフォーカスを当て考察していきたいと思う。

ケヴィン・ケリーは、若い頃はヒッピーであり、あのスティーブ・ジョブズもヒッピー時代に夢中になって読んだ伝説の雑誌ホール・アース・カタログを世に出した人物のひとりだ。その後、テクノロジー系ジャーナリズムの草分けである雑誌WIREDを創刊、99年まで編集長を務めた。前著「テクニウム」では、その思想的支柱を解説し話題を呼んだ。今回出版された『<インターネット>の次に来るもの』(以下本書)はさらに実際に起きつつあるテクノロジーに関する膨大なデータや実例を引用しながら自説の現実性を補完している。本書はニューヨークタイムズのベストセラーにも選ばれており、日本においても起業家やビジネスマンにとって、間違えなく今年1番の必読書のひとつと言えるだろう。

 

 

2. 人類は「テクノロジー」への態度を決めなけばならないときが来た

しかし、本ブログはむしろテクノロジーに興味・感心がない、あるいはテクノロジーに否定的か拒絶反応を起こす人たちにこそぜひ読んでほしいという思いで書いている。新しいテクノロジーがビジネスチャンスとばかりに躍起なビジネスパーソンよりも、自然や平和をこよなく愛し、戦争や原発に反対しているひとたちに向けている。僕自身がそういった読者の一人でもあるからだ。できればテクノロジーというよくわからないものを悪者にして避けて生きていければという気持ちもある一方で、よいものは使っていけばいいではないかという葛藤があった。

現に、僕たちの生活は多かれ少なかれテクノロジーに頼るらざるを得ない生活に取り込まれているという歴然とした事実がある。その現実を踏まえて未来をどう捉えるべきか?様々な問題が差し迫った21Cの初めに立つ人類は、テクノロジーとどう向き合っていくべきか、いよいよその結論を出すべきときがきている。

ここで言う「人類」とは、テクノロジーを操る側である一部の科学者や事業家や政治家たちのことを指しているではない。圧倒的多数の一般的な僕たちのことだ。僕たちはテクノロジーを完全否定して決別して生きていくべきなのか、消極的に使っていくのか、もっとポジティブに付き合っていくことで本当は世界をもっとより良くできるか。

本書が示している思想と方法論は後者のものである。テクノロジーという冷酷そうで得体の知れない”よそ者”に対して、愛情を持って暖かな目で”彼ら彼女ら”を受け入れたとき、驚くべきことにそこには暖かく光に満ち溢れた優しい存在が浮かび上がってくる。ここは騙されたと思って読み進めていただきたい。

本稿でいう「テクノロジー」とは、インターネット、IoT、人工知能(AI)、センサー技術、仮想現実/拡張現実(VR/AR)、ロボット、ドローン、ブロックチェーン等いわゆる昨今いろいろなところで取りざたされる新しいテクノロジーのことを指しているが、提示するフレームワークは今後でてくるであろう様々なテクノロジーの多くに適応可能なはずだ。

ちなみに、未来を予測する人たちの中で僕が最も信じられる人は「ヒッピーあがりの起業家」だという思いは本書を読んで確信に変わった。なぜかということについては最後に述べることにする。

 

3. 「テクノロジー自然生態説」とは??

同書のタイトルは「〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則」となっているが、原書のタイトルは“THE INNEVITABLE”ー『不可避なもの』である。

テクノロジーは(人類にとって)「不可避なもの」であるというのだから、これは強烈なメッセージだ。選択の余地がないというわけである。実は米国版よりも先行で中国で出版されたということだがそのタイトルは『必然』だという。

一般的な考え方だとテクノロジーというのは人間がつくり出してきたもであるから、人間の意志、力、目的、意識によって自由にコントロールできるものだと思うのだが、そうではないと断言しているのだ。

個別のテクノロジー全てが不可避だと言っているわけではない。”ネットワークのネットワークとして世界に広まったインターネットというトレンド自体は不可避だったがそれがどんな種類のインターネットを選択したかはそうではない。声のメッセージを遠くに送る電話というトレンドは不可避だったが、アイフォン自体はそうではない。”というように。

あくまでここで言っている不可避な流れとは、大きなトレンドのことであり、そのトレンドには見えざる法則めいたバイアス(傾向)と避けがたい慣性の力が働いているというのである。テクノロジーの変化とは「内在する基礎的な物理法則から来る」ものと主張する。このような考え方は前著『テクニウム』を前提としている。

「テクニウム」という思想概念は、テクノロジーの進化は生命における生態系と同じもの」として捉え、テクノロジーは自律的に進化すると主張するものだ。

長年テクノロジーの進化を最前線で見続けてきたなかで、「テクノロジーにも背景にある理論のようなものがあるのではないか」と気付き、テクノロジーに見識のある人々にインタビューを3、4年続けた結果、誰もそのセオリーを持っていないことに気付いたという。そして、生物学とテクノロジーはまったく同じものであるという「テクニウム」理論に至ったというのだ。

本書では、このテクニウム理論を下敷きにした上で、より具体的にこれからの不可避なテクノロジーのトレンドを12のコンセプトにまとめている。

BECOMING、COGNIFYING、FLOWING、ACCESSING、SHARING、FILTERING、REMIXING、INTERACTING、TRACKING、QUESTIONING、BEGINNINGの12章からなっているが、各タイトルはテクノロジーに詳しくなければ馴染みの薄い英語がずらっと並んでおり、これだけ読むとよくわからなくて読む気も失せてしまうかもしれない。僕自身も理解するのに時間を要したし、消化不良でもあったため、自説も加味した上で本稿では新たな7つのくくりを提示したうえで論じていきたいと思う。

 

4. テクノロジーが人類を救う7つの理由

そもそもテクノロジー進化の法則が生態系のそれと同じであるならば、テクノロジーを理解するためのフレームワークも生態系の基本的法則に則って整理したくなる。そこで、ーこれはとてもチャレンジングなことだがーテクノロジー生態系なるものの基本フレームワークを考えてみたい。

テクノロジー進化の不可避性は、著者の言うように物理学でいれば熱力学第2法則のようなものだ。熱は高い方から低い方には流れるが、低い方から高い方には戻らない、不可避な現象のことを指す。あるいは、エントロピー増大の法則のように「自然(世界)は、”秩序から無秩序へ”という方向に進む」ということが不可避だ。そのような自然界の本質的に不可避な変化がテクノロジー進化の方向性を占う道標になるというのだ。

本稿の前半は、ケヴィンの論考を受け、独自の解釈を加えた上で新たな7つのくくりを提示する。

また、7つが出揃った後の後編については、更に独自の見解を加えて、テクノロジーの本質と未来の捉え方を提示していきたい。ケヴィンへの最大限のオマージュ(敬意)を込めて。

 

一. 流動化(脱固定)
二. 分散化(脱中央集権)
三. 個別化(脱全体主義)
四. 共有化(脱所有)
五. 集合化(脱個人)
六. 無料化(脱既得権)
七. 唯識化(脱現象)

 

一. 流動化(脱固定)

物理学的に言えば、固体の方が安定的なのだが、エントロピー増大の法則に従うなら、固体はなんらかのエネルギーを受けることで液体に、液体は気体に”なりたがっている”。もっと言ってしまえば物質は非物質に”なりたがっている”。

同書によれば、GDPの金額あたりの物質の量は減少しているという。”1キロあたりのGDP価値は1977年dw1.64ドル、2000年で3.58ドル。非物質化は倍増している。”

産業革命以降20Cまでの大量生産大量消費で人類史上最もものに溢れている中、それらが21Cには流動化し、物質量としては減少していくという流れがあるべき必然であり、まさに現テクノロジーはその動きを加速させる方向に向かっている。

各家にあったCDはもはやクラウド上から必要な時にアクセスすればよく、何一つ持つ必要はなくなった。

人類史上全ての書籍をデータ化しつつあり、それらはもはや枕元におけるほどになってしまっているという。

そうなってくると、本の概念自体が変わっていく。wikipediaのように、出版された本は、それで完成ではなく、様々な人が参照したり、付け足したりすることで、日々アップデートされていき、流動的な存在になっていく。あらゆるものは、完成品ではなく成長・進化し続ける未完で流動的なものになるという。

「ドローン」がなぜここまで人々を魅了し、市場はますます成長しようとしているのか。これも、重力で固定されていた存在が流動化し、自由になりたがっている、という本質的不可避な流れの現れなのだろう。

デジタルアートの世界で活躍するチームラボの猪子さんが「人類を物質から解放したい」と述べているのも、流動化という大きな流れを物語っている。

 

二. 分散化(脱中央集権)

「分散化」も、熱力学第2法則やエントロピーの法則的に考えると必然で不可避な流れだ。

分散化をもたらした最たるテクノロジーはいうまでもなくパーソナル・コンピューティングとインターネットだ。スティーブ・ジョブズは「IBMが支配する世界からの解放」として暮らしを便利にする手段を民衆のためのものにした。インターネットによって、誰もが手軽に知識を得られるようになった。これは遠い未来から振り返ったとしても、人類史の中で革命的な出来事と記録されていることだろう。

アーティストは、中世では一部のパトロンを見つけなければいけなかったが、いまではオーディエンスへ自ら直接販売することができるようになった。

また、分散化は仕事の仕方にまで影響を及ぼしている。作業を分解し、分担することで、同僚が物理的に同じ場所にいなくても、世界中どこでもいつでもコラボレーションして働ける、クラウドワーキングというワークスタイルが起こりつつある。

分散化の究極は、現在の貨幣システムがなくなるかもしれない、ビットコインだ。”ビットコインを支えるブロックチェーンという仕組みは、世界中のビットコイン所有者が分散した形で取引台帳をもっており、所有者と取引履歴のチェーンは誰もが点検可能になっている。管理・監視機能を集権化しなくてもP2Pで信用性を担保するすごい発明だ。”

中国では、政府の監視を免れるために中継局を介さないネットワークを構築することで、中国政府を何ヶ月も締め出してコミュニケーションできるシステムがつくりあげられたという。

分散化がもたらす社会は、中央の権力者が監視するという体制から分散化された個々が相互に監視しあう「共監視」という体制に移行していくことを意味する。

人類は何百万年もの間、部族や氏族の中において行為は丸見えで秘密などなく、進化論的には「共監視」はわれわれにとって自然状態なのだ。循環する世界では、お互いが本当に公平で対照的に共監視が行われるなら、快適なものになり得る。

としている。

20世紀までの政治やビジネスの世界では、それが共産主義であろうが民主主義でであろうがいずれも「分散化」した社会を構築しようという思想にもかかわらず結果的には組織は中央集権化に向かい、権力が腐敗してイデオロギーが形骸化するということを繰り返してきている。僕が夢見る革命とは、まさに21Cのテクノロジーがコアエンジンとなって、真の分散化社会を実現させることだ。インターネット革命はケヴィンもいうように、大いなる第一歩ではあるが、ほんの「はじまり」に過ぎないのだ。

 

三. 個別化(脱全体主義)

「コンシューマーからプロシューマーへ」これは、未来学者アルビン・トフラーが命名したものだが、前述の流動化、分散化によってもたらされる「個別化」の流れだ。

個人はもはやヒエラルキーのある大組織の一員としていやいや兵隊のように生きる必要はなくなる。

今や、トップクラスのフォロワー数を誇るインスタグラマーが発信することで数千万単位で洋服が売れるという時代だ。だれもが使いこなせる簡単なツール(写真や動画アプリ)を駆使してセルフブランディングし、プロモーションすることで、大きな売上を上げられるということは、従来のカメラマン、芸能プロダクション、マスメディアという巨大な既得権益者たちを一気にすっ飛ばし、権力を分散化、個別化してしまう革命的な出来事だ。

また、あらゆるプロダクトやサービスは「パーソナライズ」する不可避な流れが進行していく。自分好みの本を選ぶとき、音楽を選ぶとき、様々なシーンで「フィルタリング」機能を活用し、それを人工知能が学習していくことで、常に自分好みに合わせて物事が最適化していく。

自分がどこで何を見て誰と何を話したか、いつどんなとき身体はどんな状態だったか、SNSだけでなくこれからますます当たり前になっていくであろうウェラブルデバイスは、自分自身を記録する「ライフログ」として機能していくようになる。そういった、自分自身の客観的で量的な記録から浮かび上がってくるのは、「自分が何者であるかという自己像、アイデンティティ」に他ならない。

テクノロジーによって個別化されることで強いられるのは、僕たちがより自分らしく生きる」ことである。

 

四. 共有化(脱所有)

流動化、分散化、個別化によって、より自分らしく生きる多様な人たちで世界は満たされていく。一方、それぞれ個別化していくと持ち物がダブついたり、仕事がかぶっていたりして、非効率になっていく。「共有」することで効率化しようというのが必然的で不可避な流れだ。

昨今のテクノロジー業界でトレンドとなっている「シェアリングエコノミー」とはこの流れのことだ。

”ホテル、ツール、衣服、おもちゃ、食品、家具、健康、住まい、休暇・・・”あらゆるものは、個別で所有するよりも、共有したほうが効率的だ。

これは、前述の「流動化」とも相まって、「ものを持たず」に「共有」するという現象になっていく。

ものの所有権を購入するという購買活動は、共有されたクラウドに対するアクセス権を定額利用する「サブスクリプション」へと移行していくのは不可避なトレンドだ。

メンテナンスやアップデートもクラウドソーサーに委託することになるので、いつも最新で綺麗なものが利用できることになる。次から次へと新商品を出しては買わせていた20Cよりもよっぽど親切でクリーンな商売だ。

20Cの競争原理による自由市場では解決できなかったものたちー”再貧相への医療提供、無料の教科書開発、珍しい病気の薬の資金調達”などは、テクノロジーの「共有」の力によって解決できるようになる。

PatientsLikeMeというサービスは、自分のカルテ情報をシェアすることで患者同士のコミュニティーを形成し、相互に助け合うというモデルだ。当初、さすがにプライバシーを守りたいだろうからそんなシェアリングサービスはうまくいかないと思われていた。しかし、顧客は驚くことに、プライバシー保護よりも共有による価値を選んでいるのだ。

「個別化」と「共有化」は表裏一体の関係だ。個別化(パードナライズ)を望む=自分固有のサービスを受けることを望むのなら、共有化=プライバシーを度外視した透明性ある個人情報のシェアが必要になる。

そんなプライバシーを提供するのは嫌だというのであれば、自分と他人が同じ扱いをされる不公平かもしれない社会に対してなにも文句を言えない、ということになる。

裸になれば自分そのものになれるが、服を着れば社会的になるというのは考えれば当たり前のことだ。どのレベルを選ぶかはTPOで決めればいい。自由を求めるなら権利と義務が発生するという当然の理というものだ。

ものや情報を共有していくということは、人は「持たざるもの」となってどんどん裸に近くなっていくということであり、それは狩猟採集民族だった人類の祖先の姿と似ている。人類は農業をはじめてから「持つもの」になっていった。21Cという限られた資源、定常化時代において、テクノロジーの手を借りて再び「持たざるもの」へ回帰していくのは必然であり不可避な流れなのだ。

また、同書で面白い概念のひとつに「デジタル版社会主義」がある。

FBが14億人国民を持つ国と考えるとトンデモナイ自体が起きていることになると著者は言う。”FBの生産物であるコンテンツは誰がつくっているか?FBに雇われている労働者ではなく、無給の投稿者たちの労働によって支えられているのだ。”

信頼性は中央集権的にコントロールしないと担保できないという神話をwikipediaが見事に破壊した。人類の叡智を集めようという共通の目的のために、有象無象の”無料の労働者”たちが、知恵を共有しあうことで集合化し、信頼性を担保していくというかつてない試みが成功を収めた。

これからのテクノロジーが進めていく分散化、個別化、共有化という流れは

私有材を認めない古典的中央集権的共産主義でもなく、純粋な市場の自己中心的カオスでもない。分散化した人々の協調によって、純粋な共産主義や資本主義ではできない新しいクリエイションと問題解決のためのデザイン領域ができつつあることである

と述べている。

共産主義でも資本主義でもなし得なかった個人の自立と集団の力の共存」が可能になるのだ。

 

五. 集合化(脱個人)

流動化し、分散化し、個別化して、共有化する人類の姿を一言でいえば「裸になり、つながってひとつになる」=「集合化」と言い換えることができるだろう。

あらゆる情報がクラウド化していく、人類の記憶がクラウドに集約していく、そこから送られてくる情報によって日々の意思決定が最適化されていく。これは、人と人の脳がつながって、全世界の脳がひとつになり、世界の意識がひとつになっていくということにより近づいていくといえるのではないだろうか。

自ら情報を提供・共有し、新しい知識を取り込む習慣が身につくことで多様性に対する需要度が高まり、あらゆる変化や矛盾に対してオープンになる。あらゆる境界がなくなっていき、人と人の境界が曖昧になっていく。

同書の表現でいうならばわたしはわたし以上”になり、個人でありながら全体性をもった人類へと進化していくことは不可避な流れだ。

著者が、ネット上のリンクからリンクをたどりパラパラとネットサーフィンに勤しんいる状態を”集合的な無意識の中に入り込んでいる、まるで白昼夢のよう”と述べているが印象的な表現だ。

また、もののインターネット(IoT)ーあらゆるものがインターネットにつながっていくなかで、より機械と人間がやり取りする「インタラクティング」が増すのも不可避な流れの一つだ。文字通り人工知能と人が当たり前のように会話するようになっていく。今でも、Siriや女子高生AIりんなちゃんを恋人扱いしている人たちがいるようだし、ご高齢者がロボットと会話したときに「こんなものが欲しかった」と涙ながらに喜ばれたという話を友人から聞いたこともある。この「インタラクティング」は、人は機械とも愛情を通わせるようになるということだと思う。つまり、人は、自然や人だけでなく機械とも、すなわち全てが「つながっていく」のだ。

 

六. 無料化(脱既得権)

あらゆるものを共有し、集合知となっていく流れの中で、あらゆるものが全人類にとっての「コモンズ(共有財)」となっていく。テクノロジーは「無料化」、「コモディティー化」を迫るものだ。

2002年のIMF白書によれば、”コモディティーの価格は過去140年にわたって毎年1%下がる傾向に有る”とされる。”1世紀半の間にモノの価格はほぼ無料になってしまう”のだ。

それもそのはず、デジタル化されるものは全てコピー可能なため(流動化)、この流れは不可避である。

テクノロジーで代替されていくものは全て「無料化」していくと言える。

とはいえ、現状のようにGoogleやFacebookのような巨大企業が我々の情報を全て牛耳って既得権益化しているではないか、という意見もあるだろう。これも本質を理解すれば過渡期的な事象にすぎないと判断できるだろう。著者も、共有化・集合化・無料化の最後のステップとして全てがコモンズとなる「インタークラウド」をあげている。情報が独占を嫌がる傾向は不可避なのだ。

そうした強い無料化という流れの中で、反作用として逆方向の不可避的流れがおきる。「本当に価値あるものは何なのか?」という絶え間ない問いかけにより「コピーできないものの価値の再発見」が起きてくるということだ。

このことを「経済等式の位置の逆転」と呼ぶそうだ。音楽はライブからはじまり、カセット、CD、そしてデータのサブスクリプション(定額制)に移行してどんどん無料に近づいていく中で、再び「ライブ」という体験型の価値が増してきている。「やっぱりライブがいいよね」というものは一通りコピーされる音楽の価値が均質化(コモディティー化)しまったことによって気づく人が増えたことを考えると、ある意味「テクノロジーが本当の価値を教えてくれた」ようなものではないか。

それ以外にも様々なコピーできないものー信用、人とのつながり、即興性、体験、実物、個人的な意識、解釈、感謝、愛情・・・などの価値の再浮上が起こるだろう。

著者は、唯一コストが増加するのは「アテンション」だと言っている。「単位時間あたりの経験」である。情報やサービスは毎分毎秒無料となっていきまるで空気のような存在になっていく。一方で、その中でどれを選びとって自らの体験に時間を使うかという単位時間当たりの経験量は変わらない。天文学的なデジタル情報たちが、希少な我々の時間を我こそはと確保しようとするのだから、我々の体験価値は天文学的プライスレスになっていくのだ。

 

七. 唯識化(脱現象)

流動化によって、あらゆる情報が常に目の前を流れいき、分散化・個別化によって情報は自分に最適な形にパーソナライズされ、共有化によって過去と未来に関するあらゆる人類の叡智を現在に取り込むことができる。そんな世界で人の意識にどんな変化が起こるか?

それは、「今という貴重な時間と体験を大切に生きる」という流れだ。

テレビがスマホになり腕時計になり、眼鏡になり、タッチパネルになり、あらゆる情報はいたるところで「スクリーン」に映し出される。「スクリーン」は「リアルタイム思考」を促す。そして、リアルタイムに判断し、即座に行動することを迫る

流動化時代においては「サーフィンする」というライフスタイルが適することになる。刻々と変化する波をとらえ、今その瞬間を最大限に楽しむのがサーフスタイル。ネットサーフィンとは言い得て妙というわけだ。

人は、より自分の意識、感覚、体験を大切に生きるようになる。仮想現実(VR)によってあらゆる体験は、今目の前で起きてしまうことになる。もはや物理的場所や時間にすら縛られなくなるのだ。そして、何が現実で何が虚構かの垣根がどんどん曖昧になっていく。

更にテクノロジーは過去には到底できなかった、不可能なことを次々と現実化していく。夢と現実の境もなくなっていく。

ここでも、VRなんて所詮バーチャルだ、機械は機械、リアルが大事、自分の意識と身体感覚が大切だという「経済等式の位置の逆転」が起こる。しかし、ますます両者の距離が縮まり、融合していくなかで、何が本当のリアルなのか、何が真実かなのかがますます見えなくなっていくだろう。

著者が記した「クエスチョニング」というトレンドは、これからまさに人類はそういった真実を追求していく時代になることを示している。僕たち人類の存在とは一体なんなのか?答えのない「禅問答の世紀」になる。日々目の前にする「あらゆる現象」は全て幻かも知れない。では幻にとらわれない生き方とは?

テクノロジーこそが、人類を生きる本質への道に導いてくれる存在のかもしれない。

(前編:完)

 

<後編>はこちら

—後編の目次—

5. 本質を見極めるための3つのガイドライン

6. テクノロジーとスピリチュアリティーの統合

7. テクノロジーは人類を「最適化」する

8. (結論)テクノロジーの真の目的とは?

9. おわりに

 

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三宅洋平がテレビに映らない本当の理由

Posted on Posted in P11. かくめい

三宅洋平とは誰か?

長髪、ヒゲ、ミュージシャン。第24回参議院議員通常選挙、関東ブロック東京、候補者 三宅洋平。
新聞にもテレビにも映らない。一方で渋谷の街頭演説で1万人を集める三宅洋平とは一体何者なのか?
3年前の第23回参議院議員通常選挙。緑の党からの推薦を受け、比例代表で立候補したが落選した三宅の得票数は17万6970票。これは当選した自民党の渡邉美樹氏の10万4176票や、丸山和也氏の15万3303票より多い。社民党で唯一当選した同党幹事長の又市征治候補の15万6155票よりも多かったが、緑の党全体の票が足りないためにあえなく落選を余儀なくされた。全ての落選した候補者の中で最多の個人得票数であった。

そんな結果がありながらも、まだまだテレビに映らないようだ。僕が大企業のコンサルタントとして”あっち側”にいた3年前、僕を含めた僕の周りには三宅洋平は存在していない人だった。そのことを今、”こっち側”の人たちに話すとひどく驚かれた。”あっち側”と”こっち側”では、流れている情報がまったく違うのだ。

 

これは、マネーエリートとセンスエリートの戦いか!?

経済を動かしている官僚、大企業、投資家というマネーエリートたちと、やや不満だという一般人や、絶対許さないという一部の感情的なセンスエリートたちが多少いるようだ。マスメディアによって描かれている構図は果たして現実を写した実像なのだろうか?
マネーエリートたちは、自分たちが稼いでその他大多数に金を分配すれば、大多数の個人の自由が守られると考えている。一方、マネーエリートが稼ぐ過程において搾取構造がうまれるから、その他大多数の自由と尊厳が奪われると考えているのがセンスエリートたちだ。
どちらの人たちも知っている僕は、どちらのエリートもトップクラスになってくると、自分の立場でできることをやっているだけであって、アプローチは違えども最終的には社会貢献や世界平和を考えていることを知っている。性善説を説いているのではない、それが合理的だからだ。

 

なぜ対立構造が生まれてしまうのか?

それは、現状に満足しているか、現実について自ら考えずにただただリードオンリーを決め込んでいる、そんな自分たち自身がそうさせているのではないか。毎日のカレンダーを埋めること、テレビをつけっぱなしにしてただ時間が経つことを望んていること、波風たたずに嫌われないように周りに合わせて生きていくことで、未来や次世代の問題を考えないようにしている行動しない大多数の自分たち自身が事態の悪化を事実上黙認したままこの世の中が変わらずに突き進んでしまっている原因なのではないか。すなわち、三宅洋平がテレビに出て来ない、存在しないものとなっているのは、政治家でもマスコミでもなくその視聴率を決めている僕たち一人一人がそういう社会を選んできた結果ではないか。
悪く見える政治家も、搾取してるように見える大企業も、政治は遊びじゃないんだよ、ミュージシャンが何言ってんだと言って個人の可能性の扉を閉ざしてしまうのも、全部自分の問題の鏡だ。
マネーエリートにできることは、その他大勢には真似できない。でも、だからといって、その他大勢が自分の尊厳と自由を主張し、実際にリスクをとって行動しないのならば、そこにつけこまれて搾取される、ただそれだけのこと。それは自分が選ぶべくして選んだ道でしかない。

 

7割が不満をもつこの社会は誰がつくったか?

誤解を恐れずに言えば、これまでの社会は経済発展のために個人の自由を制限してきた。そのことについて教育を問題にあげる人が多いが、僕は自主的にそうしてきたという方が大きいと思う。これまでは、誰もが信じられる経済成長が前提としてあったために、その方が結果として個人の自由も得られることが多かったからだ。しかし、世界的に経済がますます厳しい事態を迎えていくなかで、僕らがさらなる経済発展を望むなら一人一人の自由や尊厳を限りなくゼロにするほうが理にかなっているということになるのだが、それを望むか望まないかは、誰かが決めてくれることではない。自分自身で決めることなのだ。
日本は、経済:世界3位、平均寿命:世界2位、治安:世界8位、森林面積率:世界17位。こんなにも便利でいて自然があり安全で健康な国は世界中探しても日本以外にないのだ。日本で餓死して死ぬことなどほとんど不可能と言ってもいい。つまり、環境としては誰もが好きなように生きれる可能性に満ち溢れているはずだ。
それなのに、8割を超えるサラリーマンのうち、ストレスを抱えて不満をもつ人は7割を超えるという。経済という幻想のために、身も心も捧げて毎日不満ばかりもらしながら暮らし続けたいという人がなぜこんなにもたくさんいるまま解決されないのだろうか?

 

ヒゲ、長髪、三宅洋平というアイコンは何を意味するのか?

三宅洋平の社会的な存在意義はまさに、ここにある。あたりさわりのないことにいいね!をして、面倒そうなことにはROMを決めこんでいる大多数の若者たちの心に、音楽と熱意というバイブス(波動)を送り、魂を直接再起動させようとしている。ま正面から立候補してこれだけの勢いを持って挑戦しているミュージシャン兼政治家は日本では初めての人かもしれない。
ちなみに海外ではミュージシャンが政治に影響を与えることは例をあげるまでもなくよくあったし、政治はもともと”まつりごと”であり、音楽は古代から政治とも文化とも深く関わっておりいつも人類とともにあった。昨今では聴覚は視覚以上に意識に影響を与えるものとして科学やスタートアップ界隈でも改めて注目されている。
ヒゲと長髪はやめるべきか?僕もはじめは、ヒゲと長髪やめれば、もっと票をとれるのでは?と思ったが、彼の言うとおり、それでは何も意味がないのだ。誰もが自分らしく、自由に生きられる社会にするために、自らがその象徴として勝つために、リスクを承知で彼はあえてやっている。
彼が、早稲田出身で、リクルートという巨大企業出身と聞いたら、ころっと見方が変わってしまうのなら、ミュージシャンが?ヒゲが?という表層だけで判断してしまっているなと思うなら、本質を見えなくしてしまった「概念」というものにとりつかれてしまっていることにようやく気づき始めている証拠だ。

 

経済という神話を信じるか?自分自身を信じるか?

経済はいくら発展してもトリクルダウンは起きない、サプライサイド経済理論の失敗、市場の失敗。巨大な資本主義システムは大きなバグを抱えながら、それでも突き進んでいる。
もしも、大多数の個人が自分たちの自由と尊厳の重要性に気づいたとき、経済という神話は大きく崩れさる可能性が高い。なぜなら、経済はそもそも共同幻想で成り立っている概念でしかないからだ。これは、比喩でもなんでもなく事実である。
それをなんとか止めるために、神話を全員で信じ続けよう!と呼びかけるマネーエリートたち。
でもどうだろう。これからも誰かがつくり出していく神話と、自分自身、どちらを信じて生きていきたいと思うか?
今、僕たちはその二択を迫られている。
どちらが絶対的に正しいということでは決してない。なにが適切な判断かは時代によっても、移ろいゆくものだ。
環境破壊、3.11、テロリズムと戦争、シンギュラリティー、何が起きるかまるでわからないというこのご時世。世界を「誰かによってつくられる神話」ー経済、お金、国家という概念にこれからも委ねるか?
はたまた「自分と自分を起点とするリアル」ー生きていくために必要な土や水と自然、自分しかもってない自分らしさを源とする仕事、人は生まれたときから全員創造者であることを今一度思い出してみる。そして何がなくなっても何が起きても信じられる、助け合える家族と仲間を大切に生きる。
なぜ、日本人の消費は伸びないのか?国内外のマネーエリートが悩みの種とするこの問題。僕は逆だと思う。日本が歴史的にほぼ単一民族国家であり続けたことは、その豊かさが自分たちの自助努力によって守られてきたという証ではないだろうか。日本人の無宗教性は豊かさの象徴ではないか。何かにすがるよりも自分と家族と自然に感謝しながら生きてきた。その国民性において、心の奥底で今回の文明における”神話”にもしっかりとした眼で疑問を抱いているだけなのではないか。

 

今こそ、選択のとき

僕たち一人一人は知らず知らずのうちに、毎日一分一秒をこのどちらかを選択してしまっているのだ。その選択の積み重ねが自分そのものであり世界そのものになるのだ。
選挙はそれら全ての選択のほんの一部にすぎない。選挙が目的ではない。これから先の未来は誰からも生まれない。すべての自分自身がつくっていくしかない。
逆にいえば、全員が主人公になれる最高にわくわくする時代がくるのだ。

今こそ、かくめいを起こすときだ。

毎日のくらしをかくめいしよう。Life Is Revolution

山下 悠 一

三宅洋平オフィシャルページ

 

REVorg

【イベント】6月1日(水)19:30〜@サンクチュアリ出版:「元外資系トップコンサルタント×グローバルノマド×地方最先端エコビレッジリーダーの3人が描く、まだ誰も知らない21世紀を生き抜く幸せな生き方とは!?」

Posted on Posted in P11. かくめい, S1. ワークライフ進化論

6月1日(水)19:30〜 サンクチュアリ出版社@千駄ヶ谷でのトークイベントのご案内です。

資本主義社会の限界については、もはや多くの人の中で”気づき”の段階を終え、”実働”ーじゃあどうするの?
という段階に入ってきています。国会前のデモや原発反対もひとつのアクションですが、まず自身のライフスタイルをどう変えるのか、その第一歩をどう踏み出すのか?が肝心です。

今回は、そのはじめの一歩を踏み出すにあたって、私がリスペクトしている2人との対談を実現しました。

先住民族たちの文化と急スピードで成長する経済が共存するメキシコにて、馬に乗って旅する移動型コミュニティーホースキャラバンを経験し、”生きる”の本質を追求してきたグローバルノマドの鯉谷ヨシヒロ。あの熊本の震災にあっても笑っていられる未来のコミュニティーをつくり、実践している今話題のサイハテエコビレッジリーダーの工藤真工

彼らのライフスタイルは未来の行き方・働き方のヒントに満ち溢れています。
これからの社会がどうなっていくのか?そして私たちはそういった社会を生き抜くためには、どういったサバイバルスキルが必要になってくるのか?

その理論と実践についてわかりやすく、かつ痛快に提示していきます。

詳細はこちらをご確認のうえ、ご参加申込みください。

【イベント】「元外資系トップコンサルタント×グローバルノマド×地方最先端エコビレッジリーダーの3人が描く、まだ誰も知らない21世紀を生き抜く幸せな生き方とは!?」

では、会場でお会いしましょう!

Blue Soil Consulting
山下 悠 一

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【イベント報告】DIGITAL LOVE & PEACE 〜 Run Mindfulリトリートで野生の体をインストールしよう! – みみず vol2 4月24日@鎌倉

Posted on Posted in P11. かくめい, P21. みみず。, S.4 共生プラットフォーム, S1. ワークライフ進化論

4月24日(日)、おそらく日本で初となるランマインドフルリトリート企画、 『DIGITAL LOVE & PEACE 〜 Run Mindfulリトリートで野生の体をインストールしよう! – みみず vol2 』を鎌倉にて開催しました。

 

今回のナビゲーダーは編集者の松島 倫明さんです。

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松島さんは、 デジタル&テクノロジーサイドにおいて未来を的確に予見した クリス・アンダーソンの『FREE<無料>からお金を生みだす新戦略』『SHARE <共有>からビジネスを生みだす新戦略 』、そして最新作、レイ・カーツワイルの『‪シンギュラリティは近い‬[エッセンス版]―人類が生命を超越するとき』

等を編集している一方で人間の身体性について驚くべき見解を提示した 『GO WILD 〜野生の身体を取り戻せ〜』『BORN TO RUN 走るために生まれた』も手掛けており、

まるで相反するような2つの方向性において、未来を方向づけるベストセラー書籍を次々と翻訳編集していらっしゃいます。そんな松島さんをゲストに招き みらいについて考えるセッションを開催しました。 これらの本に関する話題だけで相当濃いわけですが、今回は単なる座学ではなく、鎌倉の山と海を舞台に参加者全員でラン・マインドフル(後述)と瞑想をし、古民家蕾の家で オーガニックで美味しいご飯を食べ、そしてみらいを語りあうという特別なひとときとなりました。

 

ラン・マインドフルとは?

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はじめ、「トレイルラン」と聞くと、最近流行りの山を駆け上がっていくものすごい人たちのイメージしかなかったのですが、ラン・マインドフルのコンセプトは全く違うものでした。 自然の中で走ることで「緊張」と「リラックス」の両方を同時に成立させて集中すること。自然という多様な条件下において、一歩一歩の選択に集中するという緊張と、一方で 自然の香り、風、小鳥のさえずりや草花の美しさなどを感じるリラックスを体感することで、人間は本来の野生的状態に近づき、幸福感と集中力の両方を得ることができるということのようです。(以上は僕の個人的なつたない理解です。)

また、ラン・マインドフルはスポーツではなく、スピードを競うものでもなく、隣の人と話しながら走れるスピードが一番よいのだそうです。 当初の印象とは全然違い、疲れることもなくほどよい心地よさだけが残りました。「人間は走るために生まれてきた」と主張するBorn to Runの編集をきっかけに松島さんご自身が鎌倉に越して実践 していらっしゃるとのこと。編集者でありながら実践していらっしゃるところが素晴らしいですね。

 

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このサンダルで走るというところも見た目はワイルドですが、大きな意味があります。某◯ike社がかかと部分にたっぷりとAirの入った靴を開発したことで、人間本来の走り方 が変わってしまい、それがかえって故障の原因になってしまったということがあったのだそうです。

 

さらに、ランの途中途中で世界に100人しかいないGoogleが開発したマインドフルトレーニングSearch inside yourselfの公式トレーナーである荻野さんのガイドのもと瞑想を行いました。 運動の後に行ったこと、自然豊かな中で行ったこと、みんなで行ったことにより意識がより集中できた気がしました。

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山ー海ーそして古民家、わずか2時間足らずでこのような変化を体験できる鎌倉の魅力を改めて実感。オーガニックなケータリングで好評のninoちゃんの待ちにあったご飯タイム。運動の後には格別です。

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そして、本題へ。

タイトルは DIDIGAL LOVE & PEACE。 実は、このタイトルは松島さんの卒論のタイトルだったと言います。そのころからずっと追いかけているテーマが同じということに松島さんのただならぬ情熱を感じました。 デジタリゼーションとゴーワイルドという両軸方向性の接合点にどのようなみらいを見いだせるのか? 松島さんのお話と多様であり各界で活躍するみらいの実践者20名強による3時間近くにわたる対話は濃密であることこの上なく、その場の体験無くして書き起こすことができない素晴らしい対話になりました。

 

マインドフル状態に入ったプラスの空気、場の力、トライブ感。まさに格別な場となりました。 ひとつだけあげるとすると、松島さんがおっしゃった“The Third Summer of Love”が近づいているということです。 1967年に10万人のヒッピーたちがサンフランシスコのヘイト・アシュベリー周辺に集まり文化的・政治的な主張を行った伝説の社会現象。 80年代にもイギリスで起きたダンス・ミュージックのムーブメントのことをセカンドサマーオブラブと言うそうです。そして いま、人類は、地球最後の?変革期を迎えつつあり、そんなときだからこそ、悲観的ではなく、新しい社会の出現を目指し、人類が一つになる最高の瞬間がくると。 まさにそんな日が刻一刻と近づいていることを実感しています。

 

今回お集まりいただいた皆さんには小さなイベントでありながら、大きな何かとつながっていることを感じていただけたのではないでしょうか。

松島さん、荻野さん、本当に特別な時間をありがとうございました。主催側の蕾の家の池田姉妹、フードケイタリングのnino、アラブ、岩木くんありがとうございました。

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さて、今回で3回目となった「みみずの会」には、以下のような趣旨があります。 ちなみに「みみず」とは「みたいみらいをずっと。」の略です。また、みみずがいる土はよい土で、みみずは土を耕す生物と言われています。

 

① 社会を耕すーSocial Cultivation

21世紀は経済、政治、社会、ありとあらゆる問題が複雑に絡み合い、一筋縄では解けない問題ばかりです。これまでの社会は土の存在を軽視し、 生産することばかり考えてきた結果、新しい社会を出現させるために欠かせない土が痩せてしまいました。これまでは社会に”農薬”をばらまいて多くの”収穫”を得てきました。私達世代がまず今しなければいけないのは、遠回りで地味な”社会を耕す”ことだと考えています。Cultureの語源がCultivateからきていることは言うまでもありません。 社会を耕してよい土=社会の土台をつくること。イベントやワークショップにおいても、目に見える短期的な成果や効率性を重視するものがちまたには溢れかえっていますが、 みみずの会は結果よりも思想に重きを置き、答えのない生き方について対話することに重きを置いています。

 

② 土の正体は多様な微生物のネットワーク活動

社会を耕すとは何か?よい土の正体は、豊富な空気と水によって発生する多様な微生物たちの活発な活動です。キーとなるのは、やはり多様性です。 単一の生物に偏ってしまうと生態系が崩れ、特定の菌や虫が異常発生してしまい植物は枯れてしまいます。フューチャーセッションの成功要因もセッション参加者の多様性にあります。複雑な社会問題解決のためには、具体的な解決策に落とし込む以前に”ステークホルダーの関係性の変容”が 不可欠だからです。毎回、主催者だけでなく参加者の方々の多様性を重視しています。この関係性の変容に不可欠なのが”対話”です。多様性のある人々の対話から変容=発酵が生まれる、これがイノベーションを超える エボリューション(進化)に不可欠なシナリオです。

 

③ 脳を進化させる7つのレシピを活用した”圧倒的な体験”

これまでの教育は、頭だけ使う事に終始してきました。しかし、脳をフルに使いこなすためにも、また幸せになるためにも頭以外を使った体験が不可欠であることがわかってきました。 僕が以前のブログで名付けた、”脳を進化させる7つのレシピ”は、自然、食、運動、アート、心身メンテナンス、変化、共感。これらを掛け算的に コンテンツとして活用することで脳が活性化するだけでなく、その場の一体感も含めた幸福感が増大し、さらに脳が活性化するという好循環が生まれます。 ちなみに、今回のRun Mindfulは、7つのうち自然✖️変化✖運動✖️️心身メンテナンス(瞑想)✖️共感✖️食️と実に6つのコンテンツを組み合わせています。 これがからくりでしたので人間であれば満足しないわけがないのです(笑)今後も、これらの要素を駆使して最高のコンテンツを提供していけたらとおもいます。

 

④ 場の力

近現代では普遍性を重視することで、場を軽視してきましたが、本来”未来は場から立ち上がる”ものだと考えています。鎌倉が持っている海山に囲まれた力、 東京からのほどよい距離感(エッジ)、神社仏閣多様な宗教が重なり合うパワースポット、そして歴史と人をつなぐ古民家。こういったところで集い、語り合うのと東京の 無機質な会議室で話し合うのとは確実に違う関係性やアウトプットが生まれてきます。今後も、日本はもちろん海外でも特別な場の力を使ったセッションを開催していきます。

 

⑤ 土から芽を

そして、よい土ができれば新しい芽が出てくるのは自明なことです。みみずの会という土的プラットフォームからつながった関係性から新しいプロジェクト、 仕事が自然発生的にどんどん生まれていきます。土が更に肥えていけば新しい市場の創造という意味合いも生まれてくる。新しい市場が生まれれば新しく美しいビジネスが どんどん生まれてきます。

 

最後に、進化論のダーウィンが最後に研究したのがみみずだったそうです。はたして みみずの会が、人類進化の鍵を握ることになるのでしょうか?

 

みみず〜 Evolution Hacking 〜

今後も、様々な人と場所で企画・展開していきますのでどうぞご期待ください。 また、ビジョンにご賛同いただける方はぜひ一緒に土作りをしませんか? あらためてこの活動は、あらゆるセクター、会社、派閥の枠をこえた多様な美生物の結びつきによる進化が目的ですので、どうぞいつでもお気軽にお声がけください!

 

Activedia / Pixabay

Ted x Tokyo yz 「人類」について所感

Posted on Posted in S1. ワークライフ進化論, 未分類

先日、TedxTokyo yzにお邪魔してきました。今回のテーマは「人類」。先日進化をテーマにしたブログを書いたばかりでした。キュレーションチームがこのテーマを今選んだのはつくづく時代感覚の共鳴だなあと感じた次第です。 パペット扱い、アニマンダラ提唱者、アーティスト、ロボット法研究者、照明デザイナー、鰹節伝道師、声のアーティスト、看護師、武術家・歴史学者ら10人によるセッションは、まさに人類の多様性を体感できるイベントだったと思います。 レセプションも含めて10人の方々とのお話しから僕なりの解釈も加わってしまい恐縮ではありますが、これからの人類を考えるうえでのヒントを抽出して3つ取り上げさせていただきたいと思います。

 

ヒント1 「合理性」は生き残る理由ではない。

ヒント2 想像する力が現実を出現させる。

ヒント3 人類は拡張する。

 

 

ヒント1 「合理性」は生き残る理由ではない。

アニマンダラ提唱者ヒロさんは、「環世界」のお話しをされました。視力がないダニが観ている世界と人間が目に見えないダニの世界を観ているこれは、まるで別世界です。動物の場合は種毎に環世界があるが、人間の場合「自我」が環世界をもっている。つまり一人一人が観ている世界が違う、そんな種は他になくそれが生き延びてきた理由の一つだというようなお話しだったと理解しています。わかったようなわからなかったような気がしていたのですが、以下はピッチを終えたヒロさんとお話しさせていただいたことです。「最近になって、ホモサピエンスよりもネアンデルタール人のほうが賢かったことがわかったんですよ。」僕たちは、疑うこともなく今の人類が最も賢く最も優れているのだと思いがちですが、これはステレオタイプだったということなんですね。こちらもつい最近になってわたしたち人類の共通祖先が実はミミズのようなギボシムシだということがわかったらしいです。(広島大学プレスリリース(2015年11月19日)

無脊椎動物のギボシムシ(ミミズのような形で、体長は数㌢から2メートル)から合理的に人類までたどり着いたかというと決してそうではない。 ギボシムシ自身もまさか人類になるんだという夢と目標を持って進捗管理をしながら合理的に進化してきたわけではないですよね。進化の歴史は必ずしも合理的ではないということです。ギボシムシもさぞ自分の未来の姿に驚いてることでしょう。「ネアンデルタール人もたとえば同じ品質の石器をつくる能力だとか、動物の捕獲能力もどうやらホモサピエンスよりも高かったらしいよ。」とヒロさん。ホモサピエンスが生き残ったのはむしろいろいろな種類がいたという多様性にあったのだと。進化とは合理性によってもたらされるものではなく、むしろ非合理的な多様性の中から生まれるエラーの結果だったりする、これが面白いところだなと思うんですよね。 そうすると合理性を追求する科学にはどこかに限界があるのだろう、人類の進化を考える際には、その時点では想定していない非合理的なエラーが重要なんだろうという仮説があらわれてきます。そのためにはヒロさんがおっしゃる「環世界」=自我の多様性をいかに追求し担保する社会システムにしておくか。このことが進化の鍵を握っているのではないでしょうか。

 

ヒント2 想像する力が現実を作り出す。

 

「みなさん、ユニコーンはなぜ死んだと思いますか?」

「私がたどり着いた結論は、私が殺したのだということでした。」

 

病気で亡くなりゆく大切な愛犬の死への問題解決として、外見だけでなく内蔵や骨からつくりだす「保存と再現」という作品ーまるで生きているワンちゃんがそこに眠っているかのようーを前にアーティストの平野さんは言いました。 夢の象徴であるユニコーンをいないものとしてしまったのはわたしたち大人のこころなのではないかと。サンタクロースにはじまり純粋な子供にはたくさんの夢が存在している。こんな話はよくある話なのですが、平野さんの作品に込められている執念にはそれ以上ことを思わせるものがありました。 単にフィクションとしてのおとぎの国が大人になるとなくなる、という話ではなく、人間の想念自体が現実世界をつくっているのだという仮説・実感です。 ユニコーンが死んだというのがネガティブなストーリーだとしたら、この世の登場人物のすべては自分がつくり出したものであり、純粋な思いはそれが現実化するようになっているというのが裏側にあるポジティブなストーリーではないかと。想念の力については、最も古くはヴェーダ哲学「魂が純粋になって非常に強い信念をもつと、その信念が実現するよう宇宙がサポートする」 があり、先住民たちはそれを操っていたとされ、アメリカで成功哲学としてルーズベルト、カーネギーそしてナポレオンヒル「思考は現実化する」に昇華し、イチローなどスポーツ選手も実践しているアファメーションなどに及んでいます。今では広く一般化し、How toにまで落とし込まれてきたように思えます。 しかし、これは単なるビジネスのHow Toではないのではないか。今一度本質に戻った理解をするべきではないでしょうか。人類の力が今試されようとしているのではないか、そんな気がしてきました。この作品にはそのような人類のポテンシャルを感じさせられました。

 

ヒント3 人類は拡張する。

はじめはなにかのノイズだろうと思いました。ふと顔をあげてみると、それは聞いたこともない人の声?声!?声のアーティスト山崎さんの発しているものでした。声なのか音なのかはたまた歌なのか。音とはいったいなんなのか。聞いたこともない音に、そして考えたこともない問いにはっとさせられました。彼女はこの音で空間とコミュニケーションをしているのだといいます。音は耳で聞くものと思っているかもしれないが、体中の皮膚も音をとらえることができるのだそうです。発した音はどこにいくのか?目に見えない音は放った後も空間になんらかの変容をもたらしている。私たちの脳は言うまでもなくあらゆる音の中から意図的に必要な音を選択しています。彼女は言います。

 

「あなたが聴けば、世界は歌いだす。」

 

今まで聞いた世界の歌で一番印象に残っているものは一滴の雨のしずくが葉っぱに”落ちるまでの音”だといいます。

 

合理的に考えれば今の時代にパペットという物体を3人がかりで操作する必要はないはずです。なんと生産性の悪いことでしょうか。ロボットにやらせれば1人も不要です。しかし、3人の息がぴったりと共鳴しあいパペットというひとつの物体に投影され、まるで心が宿ってしまっている(あるいはすでにある魂がパペットを通じて3人を動かしているかのようである)パフォーマンスには思わず息をのみました。パックになって売っている鰹節が当たり前な中で育ちクラブで遊んでいた永松さんが鰹節削りの伝導に目覚めたのです。いずれのパフォーマンスも単なる回顧主義には思えず、心を揺さぶられる感覚がありました。身体、五感、そして人や空間との間にある目に見えない共鳴や時空を超えたつながり。近現代が無視か軽んじてきた眠っている人類本来のポテンシャルに人々は徐々に気づき始めているのではないでしょうか。人類はまだまだ大変な可能性に満ちていて拡張していく伸びしろがあるのだと強く確信しました。注意深い対話が不可欠になりますが、東洋思想と西洋思想が相互に補完しあいテクノロジーと宗教が混然一体となり、心身を分離してきた近代のパラダイムを終えるときーポストデカルト時代がいよいよ到来しつつあるのだと思います。昨今はテクノロジーの拡張にばかり気を取られている空気がありますが、ますます”人類それ自体の拡張、進化”について興味が沸いてきた次第です。(もちろん、そのことを広く一般にわかりやすく伝えるための科学の進化がそれをますます加速させてくれるわけですが。)

キュレーションチームのみなさん、お疲れ様でした。貴重な時間をありがとうございました。

当日の様子やアップデートはこちらで。Ted x Tokyo yz

geralt / Pixabay

20万年前の設計書に託された人類を進化させる7つの要素とは!?

Posted on Posted in P11. かくめい, P21. みみず。, S1. ワークライフ進化論, 未分類

久々のアップで失礼します(笑)

「僕がアクセンチュアを辞めた理由」のYuichiです。今年はもうすこしだけアップしていこうと思います。
さて、いまさら言うまでもなく医療、農業、工業、様々な分野においてテクノロジーの発展が人類の人口爆発に大きな影響を与えてきたわけですが、人類の幸せに対しても同じく爆発的な影響を及ぼしてきたでしょうか。この問いについては大いに議論が分かれるところだと思います。 このギャップはいったいどこから生まれているのでしょうか。今回は、人類の「進化」について掘り下げてみたいと思います。人類進化の道は大きく二つ考えられます。それぞれを”右回りの進化論”と”左回りの進化論”と名付けてみました。

 

1. 右回りの進化論 ”トランスヒューマニズム”

今、人類は新たな局面を迎えています。多様で複雑極まりない経済・社会問題に対してさらなるテクノロジーの発展がそれらを救おうとしています。 社会問題へのスタンスのひとつとしてトランスヒューマニズムという思想があります。新しいテクノロジーを用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想です。

2016年米国大統領選挙が盛り上がりを見せていますが、ゾルタン・イシュトヴァン(Zoltan Istvan)氏は、不老不死を求め技術を愛する トランスヒューマニスト党(Transhumanist Party)の代表として立候補しました。

トランスヒューマニストは、人間は人間以上の存在になるためにこれらの科学技術を使用すべきであり、使用できると考えている。私の大統領選挙戦を人工心臓、脳インプラント、人工四肢、外骨格スーツ、無限の長寿などの実現を加速させる手段として利用することです。(中略)

このままいけば人類はあと半世紀で技術的特異点(シンギュラリティ)に達し、文字通り超人類となるはずです。 たとえばトランスヒューマニストは、宇宙産業を再燃させ、人々を太陽系全体に送りたいと考えています。我々は巨大な海上国家プロジェクトを作り、あらゆる種類の人や科学実験がそこで受け入れられるようにしたいのです。人間が起こしたあらゆる環境問題の解決法を教えてくれる超人工知能を作り出したいのです。

(中略)ロボットが我々の仕事をする一方、人間は21世紀の進歩の果実に支えられ、余暇を楽しみ世界を探索し、したいことを何でもできる生活を送るのです。 ゾルタン・イシュトヴァン(Zoltan Istvan)氏

まるでSFのような世界観!?加えて「遺伝子組み換え人間」、「オーダーメイドベイビー 」、「宇宙適応型人間」、「バイブマインド(社会性昆虫)」、 「コンピューターにアップロードされる脳となる」・・・ これらのハイレベルなテクノロジーを駆使した人間の「進化」は十分実現可能でしょう。人類はテクノロジーによって新たな次元へと昇華していくのでしょうか。

 

2. 左回りの進化論  “ゴーワイルド”

ここからが本題です。
こちらは生身の人間としての生物学的な進化の話です。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのスティーブ・ジョーンズ教授によると、生物学上人類の進化は止まっており、今後人類が100万年生存していたとしても今の人類とほとんど変わらないのだそうです。

一方、ここ1万年の間に進化のスピードは100倍早くなり、その証拠に牛乳が消化できるようになった、青い瞳が生まれた、などをあげ、日々進化しているという説もあるようですが、進化の大小は解釈次第なのでなんともいえないかもしれません。 しかし、ここに感覚的にしっくりくる一説がありました。

 

《人は、科学によって飼いならされたペットになった。》

以下はネイティブアメリカンとの会話です。
(ネイティブ)「すべての動物は人間よりも賢い」
(訪問者)「では、聞くが、フクロウがなぜ家を建てたり、コンピューターや自動車をつくらないのかい?」
(ネイティブ)「賢いからそんなことをする必要がないのだ」
先住民は野蛮で未熟であり現代人のほうが優れているというのは、ホッブス的な西洋思想から始まった壮大なステレオタイプの思い込みにすぎないのです。『Go Wilde』ジョンJ.レイティ (著), リチャード・マニング (著)

(ここから同書からの引用が続きます。)

進化の原理からすると、常に快適で居心地の良い環境をつくるテクノロジーのおかげで、変化に適応するための進化は必要なくなります。そして、退化していきます。動かなくてよい、考えなくてよい、楽をするようになる。筋力は衰え、脳も衰え、免疫力は低下する。 先住民を偏見なしに観察してみると、強靭な集中力や精神力、完璧な肉体美、共同体の結束力、これらに裏打ちされた生命力、大自然に囲まれた環境、生きている実感。 確かに、そのすべてにおいて現代人は劣っているといっても過言ではありません。先住民にはまったくか、あってもほとんど存在しなかった精神病、自殺、肥満、糖尿病、乳がん、子宮がん、自然分娩減少、精子減少、若者のセックス離れ・・・。平均寿命が延びた、身長が延びた、あるところまではうまくいっていたのでしょう。しかし今となっては代償のほうがあまりに大きく、この延長線上には何が起こるのか気がかりでなりません。

 

自分という環境の破壊

わたしたちは、テクノロジーの発展による負の側面として、環境破壊については多く触れてきたものの、「自分自身=身体と脳」という最も大切で、最も身近な環境に関する破壊についてはほとんど認識しないか、認識していても無視してきたと言えるのではないでしょうか。(次に大切な家族をも。)

テクノロジーの不完全性

仮にある心や精神が病気になった場合、その根本を顧みることはせず、個別課題としてあげられ、個別の対処法が科学的に処方され、それはうまく処理されていると思わされてきました。糖尿病←ダイエット、肥満←ジムの提案、うつ←抗鬱剤、それらは企業に、経済に、それらにのっかるマスコミに政治家によって。 人は熱がでたらバファリンを飲めば治ると信じており、なぜ身体が熱を発しているかを考えもせず、身体と心の潜在力をことごとく無視してきました。テクノロジーは 自然界の複雑性を機能還元的に分解、分析して個別課題を個別解決してきましたが、 自然界のすべてが解明・解読されていないなかでこの手法では、予期しないリスクや副作用をもたらすのは考えてみれば当然のことです。例えば科学的にビタミンをとれば健康になると言われて特定のサプリメントをたくさんとります。しかし、あとになって「バイオアベイラビリティ」の存在ーある栄養素をどのくらい吸収できるかはほかの栄養素の有無に大きく左右されるーが判明して、やはりいろいろ自然にバランス良く食べていればよいのだということがわかる、というように。

テクノロジーは、自然界法則の一部を切り出し、それを補完、再現、拡張しようとしたものなので、オリジナルの自然をデグレーションしたものにすぎません。悪い場合はさらに不測の副作用をもたらしています。たとえば、”脂肪とコレステロールを悪者にした挙句に工業的に作り出されたマーガリンのトランス脂肪酸は動脈効果、心臓病の原因にとなり、トランス脂肪酸2%増えると心臓病23%高くなります。” その他、遺伝子組み換え食品の例などなどあげだしたらきりがありません。

しかし、わたしはテクノロジーの有用性を決して否定していません。機能不全に陥っている弱者を救済し、引き上げることにおいてはテクノロジーは絶大な効果を発揮するからです。(ここはトランスヒューマニストとさえも一致します)しかし、同時に強者にさらなる権力を与えることにもなります。SFの世界の現実化は テクノロジーの副作用となる。ここまでは誰もが議論してきているところです。

同じくらい深刻にもかかわらず危機感がないのは、この両極(強者と弱者)への影響もあいまって生まれてくる巨大な中間層ー定義にもよりますが20億人から40億人にも達するといわれるーのワーク&ライフについてです。資本家にとって不都合な真実があるからでしょうか、2030年には50%の仕事がテクノロジーに代替されるといわれていますが、議論はその先には一向に進むことはなく「せいぜい頑張って食いぶち見つけるしかないね」、と。彼らはますます便利になると”社会に”そそのかされた挙句に、生きがいとなるような職は激減し、強烈な格差社会の中で不毛な競争に敗北をきすかかつてのようななんとかドリームも描けず、強者にますます搾取される構造は加速し、リアルよりも科学によってもたらされるバーチャルが推奨され、脳と身体のデグレーションの結果、ますます健康や愛情をそこない、幸福感だけでなく、種としてのリスクがますます高くなっていく。この巨大な中間層に対するその代償についてはどんな方策があるのか。これから社会問題として大いに深刻化するのではないかと想定されます。

蛇足ですが、富裕層62人が世界の富の半分を握っているというこの状況は、少なくともかのスティーブジョブズがパーソナルコンピューティングというテクノロジーで成し得ようとしていた革命の意図とは懸け離れた世界なはずです。スティーブに聞かずとも、自然の法則からして多様性のないシステムは持続可能ではありません。テクノロジーと市場原理は万能ではなく、それだけでは世界は最適化されないというのは、既知の事実であり20世紀の反省材料となっていたはずです。

 

左回りの進化とは?
では、生物学的に進化するにはどうすればよいのか?
同著で最も合点のいく説明は、
”死にそうなドラッグ中毒者のことを考えてみればいい。もし同じように身体が不健康で瀕死状態にもかかわらず、脳はハイで幸せだと感じるように人類がデザインされているのであれば、そんな種はとっくに滅びている”
 
人は、身体が健康なときに脳が最も活性化した状態になるようにデザインされているということです。脳はお金を求めてはいなかったのです。彼らはもっと原始的でもっと基本的で当たり前の報酬しか望んでいなかった。食事、運動、睡眠、自然、愛情、思考、瞑想。これら7要素を掛け合わせて与えれば脳は活性化し、進化を遂げるのです。身体はますますパフォーマンスをあげ、身体は脳にさらなる報酬を返す。そうすることで脳は幸せを感じ、わたしたちに高いパフォーマンスを与え、さらなる自由を与えてくれるのです。こうした正のフォードバックプロセスが進化の基本的構造です。
 
たとえば愛情。共感(利他性)は、人類進化の過程で他の種から優位性を持ち得たきわめて重要な概念であり、これがあったからこそ、人類は滅びずに生き延びてきました。そのように考えてみれば、進化の過程で体が健康である→幸せを感じる、愛情がある→幸せである、というフィードバックループがまわるように人間がデザインされているのは当然のことなのです。
 
さらに面白いのは、ストレスを取り除けば幸せになれるというようにはデザインされていないということです。なぜなら、自然に適応するようにできているためです。自然は無常であり、良いときも悪いときもあります。脳はそのような環境に適応するよう、楽しめるようにできています。「人生において最も絶えがたいことは悪天候が続くことではなく、 雲一つ無い晴天が続くことである。」という格言があります。労働は悪であり、ロボットがすべての労働を担い、人間は余暇を存分に楽しめれば幸せになるはずだ、というトランスフューマニズムの根底にある前提は人の設計書に鑑みると誤りなのです。実際に適度なストレスはドーパミンを放出し、脳を活性化させます。現代人は、健康や家族と愛情を育むことの優先順位を下げ、便利さや効率や経済を第一優先にしてきました。身体的退化だけでなく、幸福感が減退するのは当然の結果なのです。

 

そしてそのような脳への報酬の提供(=進化)は、幸福感を与えると同時にパフォーマンスを高めることになります。グーグルもすでにこのことに気づき、オフィスを緑化したり、マインドフルネスの研修に取り組んでいます。昨今、若手の間でも田舎暮らしや都会でもキャンプが流行っています。 これは、小さな変化ですが、直感に根ざした変化の兆候であり、ますます加速していくはずです。

仕事ができる人間は、睡眠不足で少々不健康くらいがイケてる。仕事が第一で家庭を顧みないくらいは当然である。 いやいや、健康になろうよ。ヨガをしよう。地域のものを食べよう。これは、もはやオルタナティブ層のスローライフ運動でも、カウンターカルチャーでもありません。 さらなる仕事の生産性とイノベーションーそれも人類の生き残りをかけたイノベーションのために、これまでたっぷり搾取してきた分も脳と身体に恩返しの”報酬”を与えるべきときがきたのです。便利さと同時に健康を、パソコンとともに運動を、都市とともに自然を、これはますます必然な流れになり、そうある未来にしていかなければいけないでしょう。 

このように考えていくと、人類は20万年かけて、驚くほど遠回りをして元に戻る活動(ホメオシス)をしているといえるのではないでしょうか。バイオフォリアやフィトケミカルの認知、マインドフルネスの効用などがようやく科学的に証明されるようになり、有効性を理解することで、ますます自然への回帰は進むでしょう。これはきわめて滑稽なことだと思いませんか。自然を機能還元論的に分解し、膨大な時間とコストをかけて解明したうえで、その一部を補完、再現、拡張してきたのがテクノロジーです。しかし、その解明が自然の全貌をとらえていけばいくほど、最終結論は次のようなものになるでしょう。

 

「やっぱり自然ってとてもすごいみたい。自然はそのままんまとりいれるべきです。以上!(笑)」

 

自然という35億年かけてブラッシュアップしてきた唯一無二の史上最強システムが”まだ残されている以上は”、それに勝る代替物はなくやはり「無知の知」こそが最高の叡智ではないでしょうか。すなわち、テクノロジーによる自然の全面解明の前に、よくわからないけどとにかくナチュラルやワイルドに生きてみることが一番の近道なのだという仮説は信じるに値するものではないでしょうか。現にいまだに人類はパフォーマンスと幸福を決定する自分たちの脳のことを1割未満しか理解できていないのですから。どうしてそんなに複雑で大それた物を、いますぐ証明したり代替できるでしょうか。

 

3. 結論

 

左回りの進化が真のイノベーションとハッピネスを同時に実現する道
私たち人類は身を粉にして発展してきました。そしてその言葉どおり、豊かになったようで身も心もずっと貧しくなりました。テクノロジーの発展により、脳と身体が退化し、環境を破壊し、それを補うためにテクノロジーを活用し、経済をうるおし、それによってさらに脳と身体を退化させ、環境を壊すか、不測の副作用を生み、そのためにテクノロジーを活用し、経済をうるおす。大局的にみれば右回りの進化はこのような負のスパイラルに陥っていると言えないでしょうか。
 
地球を捨て、他の惑星を目指すなら環境破壊してもよいと思うのと同じように、自分の脳と身体を捨ててテクノロジーに身を委ねる覚悟があるのであれば、進んで退化を受け入れればいいでしょう。
しかし、脳と身体だけは自分のまま=自由でありたいと願うのなら、右回りから左回りへー今こそ「逆回転の進化」を起こしていくべきではないでしょうか。

逆回転するためには、人間が突然進化したときに書かれた20万生き続けている最強の設計書を紐解く必要があります。しかし、その設計書に書かれている人類に進化をもたらす秘策ー脳と身体のパフォーマンスを最高に引き出し更に進化させるために必要な要素ーは拍子抜けするほどあっけないものだったのです。「食事、運動、睡眠、自然、愛情、思考、瞑想たったのこれだけです!?でも、この いずれも、現代人がことごとくおろそかにしてきたものなのです(ただ思考だけを除いて)。いや、自分はルームランナーでちゃんと運動しているというかもしれません。しかしそれは不完全どころかほとんど無意味に近い、自然の中で動物を追いかけながら走るときに脳に起きていることに比べれば。

こうして進化が左回転をはじめると何が起きるか。真のイノベーションとハッピネスの両方を満たすことができるという仮説です。左回転の進化は、テクノロジーの否定ではありません。しかし、とても重要なテクノロジーのあり方について規定しています。すなわち、すべてのテクノロジーの発展が人類にとっとプラスになるのではなく、生物学的に人類を進化させるテクノロジーこそが人類が選択すべきテクノロジーであるという基準を定義することになります。

この規定は、テクノロジーを倫理で規定するよりも強さがあると思います。なぜなら、テクノロジーの存在自体を否定するのではなく、前向きに、ポジティブに捉えながらテクノロジーと共生していくという選択ができるからです。

日本にも、本格的にデジタリゼーションの波が激しく押し寄せ、スタートアップが活気づき、大企業がことごとくディスラプトされていきます。これは、一長一短ありつつも大いに喜ぶべき変化であり、この波をしっかりとのりこなし、それだけでなくサステイナブルなシステムになるように育てていくべきものだと思います。ここで、一部の人間たちがテクノロジーを利用し、テクノロジーの発展=経済の発展=人類の発展=幸福と平和が訪れる(戦争で富を築く)だろうと説くのであれば、それは20世紀の延長でしかなく、バブルで終わるかあるいはこれまでよりもずっと深刻な問題を引き起こすでしょう。

すでに本家シリコンバレーの成長は鈍化し、オワコンとさえ言われてきています。 テクノロジーブームがまたもや一時的なバブルにならなければよいのですが。人は何度も同じ過ちを繰り返しますが、これがおそらく最終章でしょう。これが地球上における最後の革命です。この歴史的局面において、テクノロジーの本質について、人間の進化の方向性について、今一度、思想=”社会の土壌を再構築”し、あるべき生き方とイノベーションの方向性を探求していくべきであり、その道筋についてこれからもみなさんと追求していきたいと思います。

わたしがたどり着いた結論は、資本主義型社会と循環共生型社会、テクノロジーセクターとオルタナティブセクターこの相入れなかった思想が統合され、共通の目標となりえるものこそが「進化」だということです。もはや、「発展」のパラダイムは終わりました。これからの社会をよりよくするベクトルは「人類の進化」です。

このような思想と動きは、世界中で徐々に起こりつつあります。たとえばサンフランシスコで開かれているWisdom2.0というマインドフルネスとデジタルを融合したカンファレンスは、Google、Facebook、LinkedIn、科学者、医師、僧侶、アーティストなど、世界20カ国から2000人を超える参加者が集まっています。アメリカのみならず、アイルランド・ダブリン、シンガポール、ドイツでも開催予定とのこと。この流れは確実にこれからのビジネスの新しい潮流になっていきます。

幸いにも日本のスタートアップ界や若手ビジネスマンたちにはしっかりとした思想をもった人たちがたくさんいます。いや、それ以上にいつもながら、あちらで流行っているマインドフルネスの源流は、日本ですよ!!日本の禅が源流にあり、仏教などテクノロジーとは対極とされてきた東洋思想には、人類進化のレシピがすべて詰まっているのです。

 

これまでの発展の延長にはない、非連続な進化をもたらす、オルタナティブ✖️ビジネス

これがわたしが追求しているテーマです。あらためて、キーワードは

逆回転の進化 “Re-Evolution” すなわち “Revolution(革命)”

テクノロジーの発展だけでもなく、人間の発展だけでもなく、その両者の共存をもデザインに取り込んだ概念としての「進化」です。生物学的に起きないはずの進化を自発的に正しく起こすには、オルタナティブコミュニティとテクノロジーコミュニティの融合が不可欠です。引き続き、このコミュニティーの大統合に奔走していきたいと思います。わたしの周りには、スタートアップ、科学者、僧侶、心理カウンセラー、アーティスト、ヒッピー、パーマカルチャリスト、エコロジストなど多様なセクターが混じり合う流れが起こりつつありますが、進化を促進するあらゆる愉快犯Evolution Huckerたちとさらに多く深くつながりながら逆回転のうねりを起こし、拡大していきたいと思います。 みなさん、ぜひつながっていきましょう。

ちなみに、今回引用させていただいたGo Wildeはわたしのなかで昨今一番のヒット本でした。やや極端な部分はありますがそれを差し引いたとしても新しいパラダイムが得られる良書です。訳者のMさんもとっても素敵な方です(笑)ぜひ、お手にとってみてください。

 

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外資系コンサルタントの僕が農業をはじめた本当の理由

Posted on Posted in S1. ワークライフ進化論

昨日は、NHKあさイチさんの放送で数分ですが鎌倉での農業への取り組みを紹介していただきました。(8月20日放送 “JAPA”なび神奈川県・鎌倉市

数分の放送の裏側では、念密な打ち合わせと何度も足を運んで僕の行動に密着していただき、1時間ほどはカメラを回していただいていました。

放送が終わったんでぶっちゃけますが、僕はもう何年も前にテレビを捨てたんで、長らくテレビを見ていないし受信料も払っていません、笑

 

でも、テレビの裏側ではこれだけ熱い思いを持って制作している方たちもいるんだなと感激しました。番組の制約がある中でも、僕の伝えたいことをできるだけ伝えてあげたいという思いで真摯に取材・編集いただいた沼尾ディレクターには本当に感謝し、敬意を表したいと思います。

 

番組では伝えきれなかった僕が農業に関わる本当の理由をここに記したいと思います。

 

今回の取り上げ方もそうですが、農家さんを支援しているというと、一般的には「農業」の再生という目的・文脈で理解されます。日本における農家さんの高齢化・労働者不足という課題は確かに存在し、僕が今やっていることは、ボランティアを集めて農家さん援農の仕組みをつくっているので、もちろんそういった課題の解決も狙っています。

 

 また、「個人」のライフスタイル充実という目的もあります。自然に触れながら自分でつくった野菜はやはり一番美味しく感じます。また、「都会の台所は3日しかもたない」と言われている通り、バリューチェーンが最適化されたグローバルチェーンに依存した暮らしは、これから何が起きるかわからないこの世界においては逆にリスクでもあるので、まずはいかなる時にも自分たちの食料を確保できる状態にしておく=自給率を高めるておきたいという目的もあります。

 

でも、僕が農業に携わっている本当の理由は別のところにあります。

僕が農作業ボランティアの仕組みを通じてできる限り多くの一般市民が農業に携わる仕組みづくりを進めている本当の目的は、「個人」のライフスタイルでも、「農業」(= 「生産者/企業」)でもなく、「消費者」の改革です。

 

 

農業への消費者参加の仕組みをきっかけとして実現したい改革テーマは以下の4つです。

1. 消費者の” 目を開く”

2. 消費者が”あるべき文明の行方”を選択できるようにする

3. 消費者から”創造者”への移行を促す

 4. マネー依存型経済から”信頼型交換経済”への移行を促す

 

 

1.  消費者の”目を開く”

 

僕たちの暮らしは、スーパーに行けば今食べたい野菜がなんでも手に入るし、蛇口をひねれば水は出るし、スイッチを押せば電気がつく便利な世の中です。

 

僕たち消費者は、「こんなに便利で、こんなに完全で、しかもこんなに安いんですよ」という企業の甘い宣伝文句を鵜呑みにしてそれを便利だから、安いからと当たり前に購買してきました。

でも、「世の中、そんな都合のいい話はない」。

それが、3.11でまざまざと突き付けられた真実ではないでしょうか。

 

農業をやってみると、その現実をまざまざと突き付けられます。

「ああ、ネギを今すぐ食べたい」と思っても、冬ネギは実は6月には植えてそれからずーっと面倒を見つづけてはじめて冬に収穫できる、そんなに手間と時間がかかってようやく食べられるものなんだな、ということを知れたりします。

 

「農薬を使っている野菜なんて絶対に食べないわ、でもこれはちょっと葉っぱに穴が空いていて汚いから買わないわ!」

農業をちょっとでもやってみると、おいおい、となるでしょう。たわわに実ったソラマメを大量のアブラムシが覆い尽くしている状況を目の前でみたときに、どう思うでしょうか。ソラマメはたくさん食べたい、でも、農薬は使いたくない。それはみんな同じです。でも消費者は都合のいいことをまるで当たり前のように要求してしまっていますが、それは傲慢そのものというものです。生産者はそういったジレンマと必死に戦ったうえで、なくなく微量の農薬を使い、そのおかげで消費者はようやくソラマメにありつけているということもあるのです。

 

「やっぱり有機野菜がいいわ、でも安いのがいいわ!」

耕運機、ビニールハウス、農薬、化学肥料などを使った慣行農法によって、ようやく安くて美味しい野菜がいつでも食べられるようになったのです。そして、その状況をずっと支持し続けててきたのは僕たち消費者なのです 。そうやって大量生産大量消費に最適化した慣行農法用向けにつくられた土は痩せてしまいました。

 

一例ですが、北米の五大湖周辺の「世界の穀倉地帯」は、典型的に工業化された大規模農場です。ここでどんな農業が行われているか。半径1㎞ある巨大な自走式散水管に地下水を大量に汲み上げ、大量の化学肥料をいれ、高圧をかけて注入し、ザーッと散布する。巨大トラクターで耕耘してから飛行機で種を播き、成長したら巨大コンバインで収穫。最初から最後まで農場主は土に触りもしません。実は、この農園は、20年の使い捨てです。二度と豊かな土に戻ることはなく、砂漠化します。そしてまた新たな土地を文字通り食いつぶしているのです。

 

この状況を見た日本人が、「ひどいじゃないか!」というと、あるアメリカ人関係者は、「それは消費者である日本の責任だ」と言い放ったという話があります。日本は穀物自給率29%と低く、その多くはアメリカからの輸入に依存している状況です。飼料用トウモロコシにいたっては、実に90%近くを米国から調達しています。

 

スーパーで買い物をするときに、野菜だけでなく、豚肉を買う際に(米国産の飼料を用いていることを知らずに)このようなひどい環境破壊に自分が加担しているのだ、ということを自覚している消費者はどれだけ存在するでしょうか。僕たち消費者はまったくの盲目のなかで消費活動をしていることがわかってくると思います。

 

米国の大規模農園ほどではないにしても、一般的な慣行農法で痩せてしまった土は、再び微生物の多様性を取り戻し、肥沃な土にまで戻すのに最低3年~10年はかかると言われています。その間、生産量はガクッと落ちることは避け難いし、無農薬、有機農法、不耕作農法など、はじめのうちは少なからず手間がかかり、大規模にやるのは難しい。

 

そういった「都合のいいことはない」という真実を消費者が理解しなければ、本当に素晴らしい取り組みをしている小規模農家さんを持続可能にすることはできません。安い買い物はできても、安全で安心な食が守れないのです。

 

これから、グローバル企業が遺伝子組み換えの振興市場として日本を狙ってくることは間違えありません。そのときに「都合のいい話はない」このことを知っておかなければ、「食料版3.11」のようなことが起こることも否定できません。

 

また、昨今は健康ブームによって、「オーガニックにハマり、暴走する女たち 」と呼ばれるように、フードファディズム(食べものや栄養が健康と病気に与える影響を、熱狂的、あるいは過大に信じること)という現象が起きています。

 

ビジネスや社会にいきずまりが起きたときに起きる現象といわれています。そういう時代に起こる「なにかにすがりたい」という消費者心理は、巧みにビジネスと政治に利用されます。こういったことにも、消費者は抵抗力をつけておかなければなりません。「偏った話には裏がある」わけです。

 

原発の製造プロセスに消費者が入り込むことは難しいですが、野菜づくりのプロセスに入り込むことははるかに障壁の低いことです。

 

農業に関われば、「都合のいい話には裏がある」、「偏った話には裏がある」、ということを身を持って体感できる。一旦、その感覚を体得すれば、食だけでなくあらゆるものには裏があることが見えてきます。

 

 

2. 消費者が”あるべき文明の行方”を選択できるようにする

 

「文明人は地球の表面をわたって進み、その足跡に荒野を残していった」

 ヴァーノン・ギル・カーター&トム・デール共著「土と文明」

先ほど紹介した北米の穀物地帯の話は、なにも近代社会の例外話ではなく、これまでの歴史の中で、人類は幾度となく肥沃な土地を荒野に変えては捨て、発展し、また新たな土地を争い、食い荒らし、滅亡するというパターンを繰り返してきました。豊かな土壌に満ちていた古代文明の多くが砂漠化しているという歴然たる事実がそれを物語っています。

 

農業は、文明の始まりであると同時に文明崩壊の始まりでもありました。

消費量を増やし、増える人口に対応すべくますます生産量を増やすための効率的な仕組みをつくっていった、それが文明です。そして、文明がその創造の源となる土(環境)を無視してしまったことから崩壊へと向かう、それが典型パターンでした。

 

農業に触れるということは、自然と人間の関係性がいかにあるべきか?を否が応でも考えずにはいられません。

農業を始めたときが、人類の自然破壊の始まりです。肥料もやらず、耕さない、何もしない、科学の存在を真っ向から否定して確立した自然農法の創始者福岡正信さんですら、自らの農法を「懺悔の念で伝える」と著書に記述しています。自然に手を入れない限り農業は成り立たないし、完全に自然を壊さずに人類が生きていくことはできないのです。

 

ですから、農薬を使わなければそれでいい、有機農法であればいい、というのも問題に対する思考停止です。また、もっと極端に過度に環境に配慮していることが必ずしも「万人に対する正解」とも限りません。(その結果、人が苦しみながら生きづらい世の中になってしまうのなら)地球にも優しく、人にも優しい、その選択の線をどこに引くべきか?それに唯一の答えはないのです。その線は、人それぞれで違います。なぜなら、それは一人一人の生き方・考え方そのものだからです。だから、企業のいいなりになるのではなく、それぞれが人生の様々な選択を通じた実践において、苦しみながらもジレンマの中でそれぞれの答えを見出していく。それが、結果的に地球と人間の総体としての正しい姿に向かうのだと思います。

 

みなさんは、森の中で深呼吸をすると気持ちがいいのはなぜだろう?と考えたことがあるでしょうか。

僕はひとつのとてもシンプルな仮説を思いつき、それで納得したのですが、「そうか!」と気づいたときの感動はいまでも忘れられません。

 

僕は、呼吸を通じて自然と人間が一体になっているからだと考えたのです。当たり前のことです。

小学校の化学で習ったとおり、呼吸は、二酸化炭素を排出し、植物はそれを受け取って、光合成という仕組みで酸素を人間に返します。小さな相互のインプットとアウトプットを通じて人間と自然はひとつの一体化したシステムとなっているのです。そのとき気持ちいいと本能的に感じるのは、小さいけれどもお互いの生命にとって欠くことのできない強い結びつきと循環が存在するからなのだと思ったのです。自然は人間が鑑賞するものではなく、支配するものでもなく、人間の一部であり、また人間は自然の一部なのだと改めて感じた瞬間でした。

 

しかし、かといって近代化で獲得した科学技術の全てを否定するべきではないとおもいます。ただ、これからの人類の発展を考える際に、人間と自然のあり方をどう考えるべきか、その思想がとても大切になってきます。人がますます自然を克服し、支配するために科学を活用するのか、あるいは人間と自然が共生する世界のために科学を活用するのか。僕個人としては後者の世界に住みたいですし、これまでの人類の歴史から考えてみても、やはり、人間も含めた地球の持続可能性を目指すならば、後者を目指すべきというのは間違えないのではいかと思うのです。ラブロックのガイヤ理論を適用するならば、人類が地球の持続可能性に寄与しない存在になったときには、人類が滅亡するような調整作用が起きるだろうということです。

 

先日の畑仕事のことです。早朝から3人で2時間かけて、タンクからジョウロに水を汲みながら、植えたばかりの人参に水遣りをしていました。畑とタンクを何度も往復し、ようやく終えて帰宅したときに、思わぬことが起きました。雨です。「いままでの作業はいったいなんだったんだろう!?」と思う一方、農家さんとは「自然にはかなわないよね、仕方ないことだよ。逆に降ってくれてよかったね」という会話をしました。

 

農業に消費者が携わることで、いかに自然の恵みが豊かで、それは使い方次第で人工的エネルギーよりもはるかに効率的であることに気づき、一方で自然の驚異は避けられないものであることを悟り、だからこそ、それを農薬や厚い壁で排除するのではなく、不自由な側面も受け入れて生きるという選択を”消費者が選べるように”なっていくのではないか、という期待をもっています。

 

 

 

3. 消費者から”創造者”への移行を促す

 

日本のサラリーマン人口は全体の47%とほぼ半分近くの割合です。これらの人たちは、企業という枠組みの中で、ある専門領域に特化して労働をし、対価としてもらった給料を使って消費するという生活をしていると思います。言い方を変えれば、一つのことは自分でつくれるけれども、あとのことは他人任せ、という社会をつくりだしました。お金さえあれば全部他人がやってくれる、自分では何もしなくていい。ビジネスの世界では、「これからはクリエイティビティーが重要だ」といわれていますが、これまでの社会システムは人間の個性と創造性を排除することをしてきてしまったのではないでしょうか。

 

「百姓」とは、百の姓と書きます。要するに昔の農家さんは自分でなんでもできたクリエイターだったわけです。 無名であっても日々の暮らしの中で気づくフィードバックの積み重ね、そして村の中や代々伝わる工夫に満ちた叡智の積み重ねが、結果として美の境地となり、文化となりました。それが開花した時代のひとつが江戸時代でした。 詳しくはまた別の機会にしますが、これから持続可能な社会を目指すという時代においては、「全員が創造者となるべき」だと考えます。仕事を創出するという観点だけでなく、成長しない時代のリスクヘッジという観点でも重要だと考えます。

 

消費者が農という生産行為を経験するということは、とても簡単で有益な創造へのきっかけになると思います。自然の法則を体感しながら効果的効率的な生産方法を模索していくということは、クリエイターにとってなによりも勉強になることだと思います。

 

現在 畑のボランティアにきているメンバーは畑作業をしながら、「これらの野菜をどうやったら美味しく食べられるかな?」などと楽しそうなブレストで盛り上がっています。鎌倉野菜は多品種つくるのが特徴で(これも、グローバル企業に対抗した種を守る、多様性を守る、という動きになればいいのですが)、見たことも食べたこともない、カラフルな野菜も多くつくっています。また、料理というのはあらゆる複合的な知識や感性を要求されるので、クリエイティビティのよい教育に成ると思います。そうやっていくと、このお野菜には、どんな食器が合うかな?お花も飾りつけてみようかな?、テーブルのディスプレーはどうしよう?・・・そうやってどんどん身の回りを健康で美しい環境にしていくモチベーションと活動が自然に起こっていく、ということを実際に目の当たりにしています。自然と触れあうことはクリエイターにとってとても大切だというのはよくいわれていますが、農業は、それに加えてわかりやすいお土産(食べると美味しいという)があるので、学びがますます促されるのです。

 

 

 

4. マネー依存型経済から”信頼型交換経済”への移行を促す

 

畑のボランティアを通じて知り合った仲間たちとは、じゃあこのとれたて野菜をつかって持ち寄りパーティーをしようよ!となります。ときには、「俺は今日、釣りに行ってアジを釣ってくるよ」という話があって、「じゃあ、畑から野菜もっていくから」ということで、即席パーティーが開かれたりします。食べ物の新鮮さ、そして自分たちでつくったものである、その思い同士が交換されるという喜び、そしてほとんどお金がかからない。

 

海山がある豊かな田舎では当たり前のことだと思いますが、こういった生活をしていると、豊かさとは何か?を改めて考えさせられます。都会では、どうやって調理されたかわからない料理を、おしゃれな空間の中で、雑誌に載っていたから多分美味しいのだろうと思いながら、高額な料金を払って食べる。それが、果たして本当の豊かさなのかどうか。

 

誰かを訪ねるときに、デパートで菓子折りを買っていくよりも、自分でつくった野菜を持っていくととても喜ばれるし、距離が近づくのを感じます。そして、相手からも何かを与えたいという気持ちが自然とあらわれてくるのを感じます。

 

僕が思い描く未来は、ものの経済→サービスの経済の次は、「心の経済」になるというものです。

これからの社会は、全員が創造者になる時代と言いましたが、そういった創造者が、各人の想いを相手にアウトプットする。そして相手は、その想いに応えるように自分の想いを返す。そういう心と心の経済が始まるのだと夢見ています。

 

農家さんの実態ですが、つくられたものの平均1/3が捨てられているそうです。しかも、遠方へ出荷しなければいけないがために、今食べごろの野菜が規格外となって捨てられる、ということが当たり前に起きています。十分美味しいのに形がおかしかったり傷がついているものについてはいうまでもありません。これらを仲間で食べていて最高に幸せであっても、実態経済には反映されないので、今の世の中の尺度では豊かであることにはカウントされないことになっています。「新しいことは都心からは見えにくくなっていて、むしろローカルから新しいことが始まっているのだ」と言われている所以はこういったところにあるのだと思います。

 

しかし、こういった豊かさに気づき始めている人たちがいる中で、遅かれ早かれ、現代のマッチングやプラットフォームのテクノロジーが組み込まれることで、経済にも反映されてくる時代になっていきます。

 

先ほどの「心の経済」という流れと人口減・高齢化社会でますます顕在化してくる需要と供給の不均衡。これらをポジティブに解消していく事業・経済が立ち上がってくる。ちまたでは、ギフトエコノミーとかシェアリングエコノミーとかいわれているものです。

 

しかし、これらを支えるプラットフォームビジネスも、やはり欧米の仕組みだけもってきても決してうまくいかないと思います。

マネー依存型社会では、人と人は不信をベースに金で繋がっていた社会でした。これからは、人と人の心の絆で繋がっていく、そうやって信頼関係のある土壌が築かれていくことでプラットフォームビジネスもますます発展していくのではないでしょうか。そういったことに長けている国はどこか?

紛れもなく日本でしょう。

 

 

 

 

 

最後に、ここで「僕がアクセンチュアを辞めた理由」に繋がります。

資本主義経済システムのアップデートは、持続可能性の獲得に向けて企業サイドにおいて重要課題となっており、そういったB to Bの改革も進み始めています。

一方、B to Bの課題解決の限界としてのCの問題。すなわち消費者が変わらなければ企業は変われない、というところを自身の取り組むべき課題として僕は位置づけています(B to C)。消費者が変わることで、企業が変わる、そして社会にとってよい企業だけが生き残る社会になるという仮説。

 

農業に消費者が関わるということは、消費者が生産プロセスに関わるということ。しかも、持続可能社会において重要になる自然との共生のあり方が問われる生産に関わるということ。

農業への消費者参加は 、モチベーションに寄与するお土産もあり、参入障壁が低い。例えば「自然保護」や「反XX」という枠での取り組みはどうしても、入り込みにくい雰囲気があったりするのではないでしょうか。でも、畑はわかりやすい。「美味しい!が世界を変える!?」消費者の意識改革には最もレバレッジが効く取り組みのひとつと思っています。

 

特に、女性の参加が効果的だと思っています。現在農作業ボランティアメンバーの9割は女性であり、後世へ問題を先送りにしてはならない、という危機感に対する潜在的な意識の高さというのは、女性性にあるのではないかという仮説を持っています。いずれにしても、女性の意識と消費活動が変われば、近所の奥様が変わる、子供が変わる、そして最後になくなく夫が変わる、笑。これからは、女性が社会を変えるドライバーになると確信しています。

 

日本の小規模農園を支援する企業さま、安全で安心な農を追求する農家さまや製造・小売企業さまには、ぜひ畑への消費者参加の仕掛けづくりが有効であることをお伝えしたいとおもいます。畑に興味のあるボランティアの方々が、新たな消費者運動の中心となり、これからのあるべき経済市場の中心になることをサポートしていければと思っています。

 

これまでの資本主義システムの大きな欠陥の一つは、消費者が企業の生産プロセスを評価・監視するガバナンス機能をにもたなかったことにあると考えています。そのことが、強欲化する消費者と暴走する企業を助長させてきたのではないでしょうか。

 

消費者が生産側に組み込まれる仕掛けをつくる。これが今後の資本主義システムのアップデート項目の一つだと考えています。

消費者参加型の”共創”による商品開発、顧客による商品レビュー・レコメンド、消費者が特定企業の購買にコミットするCSA(生協モデル)、など、様々な仕掛けづくりが進んでいます。

 

しかし、これもまた、仕組みだけでは決して解決しません。消費者が今までと同じ価値観の消費者である以上、消費者によるガバナンス機能は、あいもかわらず企業のまやかしの罠にはまり、形骸化してしまうでしょう。

 

みんなで農業をはじめましょう。

日本人全員が農業に携われば、この国は再び世界一豊かな国になると信じています。

 

Rainbow Valley Farm Kamakura

 by Blue Soil Consulting

~ 進化するための土壌をつくる~